【令和6年度版】
〔Ⅱ〕日本の社会保障制度の変遷
以下では、日本の社会保障制度の歴史を見ておきます。
戦後の日本の社会保障制度の変遷をまとめますと、後掲(こちら)の図のようになります。
この図は、戦後から現在に至る社会保障の発展過程を、社会経済の変化や社会保障政策の変化等を踏まえて、おおむね4期に分けて、関係法令の制定とそのときどきのキーワードを整理したものです。
なお、戦前においても、社会保障関係の法制度の整備は進められていました。
即ち、1927(昭和2)年の健康保険法の施行(大正11年制定)により、初めて労働者を対象とした公的な医療保険制度の整備がなされるとともに、1938(昭和13)年には、自営業者、農業従事者を対象に国民健康保険制度が創設されました。
1941(昭和16)年には、労働者を対象とした年金保険制度(「労働者年金保険法」)が創設されています(工場等で使用される男子の現業労働者(いわゆるブルーカラー)を被保険者としていました)。
労働者年金保険法は、昭和19年に「厚生年金保険法」に改称され、男子の事務労働者や女子も対象とするものとなりました。
このように、戦前に社会保険制度の枠組みが一応存在しました。
また、生活保護制度の前身である貧困者対策としての救護法(1029年)や、戦前の社会福祉事業を監督する社会事業法(1938年)等の法制度も定められています。
しかしながら、これらの制度は、現在の制度と比べれば、その内容、対象者数、事業規模等、様々な点ではるかに不十分なものであり、かつ、終戦直後の財政難や経済混乱の中で破綻状態にありました。
ただし、これらの制度が、戦後の制度設計に影響を与えていることは無視できないとされます(以上、「平成11年版厚生白書」(こちら)第1編第1部第1章第1節「社会保障はどのように発展してきたか」の「3 社会保障の発展過程」より)。
以下、いくつかの厚生労働白書(又は厚生白書)をベースに、戦後の社会保障制度の変遷をまとめます。
少し長文ですが、一般常識対策としての「基礎体力」をつけますので、読んで頂いた方が良いです。
前掲の図や以下の説明は、「平成11年版厚生白書」の「表1-1-4」(こちらのpdfの9頁以下)と「平成23年版厚生労働白書」(こちらのpdfの4頁以下)をベースに、厚労省のこちらの図や「平成20年版厚生労働白書」(こちら)の37頁以下をまとめたものです。
〔1〕戦後の緊急援護と基盤整備(昭和20年代)
一 戦後の復興と生活困窮者対策
第2次世界大戦は、日本の政治、経済、社会、文化等のあらゆる面において大きな影響をもたらしました。
約185万人の生命が失われ、都市部の建物は戦火に灰じんと化し、国富の損失は軍関係を除いても全体の4分の1に及び、終戦直後の国民所得はその10年前の約5割程度になりました。一方、アジア各地からの復員や引揚者は、約500万人にものぼり、失業とインフレと食料危機に直面しました。
こうした中、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は労働の民主化を推し進め、これを受けて、1945(昭和20)年に労働者の団結権、団体交渉権及び団体行動権を保障した「労働組合法」(旧労働組合法。1949(昭和24)年に全面改正されたのが、現行労働組合法です)が成立し、1946(昭和21)年に労働争議の調整方法などを定めた「労働関係調整法」が制定されました。
また、昭和21年11月3日に憲法が公布され(翌22年5月3日施行)、その第27条第2項において、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」と明記されたことを踏まえ、1947(昭和22)年4月には、最低労働条件を定めた「労働基準法」が制定され、同年9月には労働省が設立されました。
さらに、労働基準法の制定を契機として、同年に「労働者災害補償保険法」が制定され、労働者災害補償保険制度が創設されました。この結果、業務上災害の保険事故が健康保険法の対象から除外されることとなりました。
一方、終戦直後の混乱の中において、社会保障分野で緊急対策として求められたのは、引揚者や失業者などを中心とした生活困窮者に対する生活援護施策であり、劣悪な食料事情や衛生環境に対応した栄養改善とコレラ等の伝染病予防でした。
そして、1946(昭和21)年には、生活保護法が制定され、不完全ながらも、国家責任の原則、無差別平等の原則、最低生活保障の原則という3原則に基づく公的扶助制度が確立されました。
その後、1947(昭和22)年に施行された日本国憲法に基づき、各分野における施策展開の基礎となる基本法の制定や体制整備が進められていきました。
1947(昭和22)年には、「失業保険法」が制定され、日本初の失業保険制度が創設されました。
失業保険制度が創設された結果、失業者の生活が単に公的扶助制度だけでなく、失業保険という労働保険制度を通しても保障されることとなりました。
また、同年には、戦災孤児や浮浪児への対策を契機として児童福祉法が制定されましたが、その内容は浮浪児等の対策にとどまらず、児童福祉の理念を掲げ、公的責任によって、児童福祉全般の向上を図るものでした。
1949(昭和24)年には、戦争による傷痍者への対策を契機として身体障害者福祉法が制定され、身体障害者の職業能力の回復を始めとする施策の体系が定められました。
1950(昭和25)年には、生活保護法が憲法第25条の趣旨を明確にする等の観点から改正されました(旧生活保護法の欠格条項(素行不良の者などが欠格条項に該当しました)の存在や、国家の責任で行うべき生活保護法の適用に関して、当時、民間の篤志家である民生委員の活用を前提としていたことがGHQより問題視されたものです)。
さらに、1951(昭和26)年には、戦後の社会福祉事業発展の基礎となった社会福祉事業法が制定されています。
※ 新生活保護法、児童福祉法及び身体障害者福祉法の3法を「福祉3法」いいます。福祉3法と社会福祉事業法の制定によって、福祉3法体制が整備されました。
二 日本国憲法と社会保障制度審議会勧告
以上の戦後の社会保障制度の構築に当たっては、国民の基本的人権を保障する日本国憲法が基本となりました。
憲法第25条に、国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)を有し、国は「全ての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ことが明記されました。
このように、憲法に社会保障制度の基本的理念が明記され、戦後の社会保障関係の法律の源となりました。
具体的な社会保障制度の設計にあたっては、総理府に設置された社会保障制度審議会による「社会保障制度に関する勧告」(1950年。こちらを参考)が、基本的指針となりました。
当時の吉田茂首相に対するこの勧告の中で、国民の生活保障を図るためには、国家が責任を持って推進するとともに、他方、国民も社会連帯の精神に立って、それぞれの能力に応じて制度の維持と運用に必要な社会的な義務を果たしながら、社会保障制度の確立を急ぐことが強調されています。
具体的には、①各種の社会保険、公的扶助、社会福祉、児童福祉等の諸制度の総合的な運用、②被用者関係の社会保険制度の統合、適用拡大、給付改善などが勧告されました。
そして、日本の社会保障の青写真を提示し、「国民健康保険制度の全国民への適用」、いわゆる「国民皆保険」を提唱し、また、社会保障の中心を社会保険方式によることを主導しました。
ちなみに、2001(平成13)年に、社会保障制度審議会は廃止となり、内閣府に設置された経済財政諮問会議と厚生労働省に新設された社会保障審議会に引き継がれました。
三 社会保障の基盤整備
この時期は、日本国憲法により、国民の生存権の保障や社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上等についての国の責務が明確にされるとともに、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の強力な指導の下に、社会保障各制度の創設や行政機構の整備が進められていった時期でした。
GHQの指導は社会保障制度全般に及んでいます。例えば、前述の公的扶助(生活保護)制度の3原則はGHQの指示に基づくものでした。医師、保健婦等の保健医療の専門職から構成される保健所制度や、福祉の専門職である社会福祉主事により構成される福祉事務所制度の創設も同様です。
この時期のキーワードをあげれば、「救貧」(貧困者を救うこと)と「基盤整備」です。
特に、救貧施策については、生活保護制度が中心的役割を果たしました。
1950年には、当時の厚生省の予算の46%が生活保護費であり、これにより当時の全国民の2.5%(40人に1人)に当たる約200万人の被保護者の生活を支えていました。
※ 厚生年金保険法の改正:
なお、終戦直後の経済混乱の中、急激なインフレによって労働者の生活は苦しくなり、厚生年金保険料の負担も困難となりました。
また、積立金の実質的な価値が減少し、将来の給付のための財源とならなくなってしまうなどの問題が生じていました(労働者年金保険法及び当初の厚年法は、完全積立方式を採用していました)。
このため、1948(昭和23)年の厚生年金保険法の改正では、保険料率を約3分の1に引下げる等の暫定的な措置がとられました。
また、1954(昭和29)年の同法改正においては、前年12月に戦時加算のある坑内員の養老年金受給権が発生することに備え、年金の体系について全面的な改正が行われました。
それまで報酬比例部分のみであった養老年金を定額部分と報酬比例部分の2階建ての老齢年金とし、男子の支給開始年齢を55歳から60歳に段階的に引上げることとしました。加えて、急激な保険料の増加を避けるため、平準保険料率よりも低い保険料率を設定し、その際、保険料率を段階的に引上げる将来の見通しも作成することとしました。
これらの改正は、現在の厚生年金保険制度の基本体系となるものであり、当時は「新厚生年金制度」といわれました。
さらに、財政方式を積立方式から修正積立方式に変更し、国庫負担を導入しました。その際、5年に1回は財政再計算を行うことが制度化されました(以上、厚生年金保険法の改正については、「平成23年版厚生労働白書」の41頁参考)。
〔2〕国民皆保険・皆年金と社会保障制度の発展(昭和30年代からオイルショックまで)
一 高度経済成長と社会保障
昭和20年代後半から経済回復の兆しが始まっていましたが、1955(昭和30)年に始まった大型景気(「神武景気」)により、日本経済は本格的な経済成長過程に入りました。
1960(昭和35)年に池田内閣の下で「国民所得倍増計画」が閣議決定されました。
その後、オイルショックにより戦後初めて経済成長がマイナスとなった1974年までの約20年間に、年平均9.2%の実質経済成長率という極めて高い率で急速に経済発展を遂げました。
1956(昭和31)年版経済白書〔現在の労働経済白書〕が、前年の国民総生産(GNP)が戦前(1934~36年)のピークを越えたことを踏まえて「もはや戦後ではない」と宣言をしました。
一方、同年に初めて出された厚生白書〔現在の厚生労働白書〕では、「果して戦後は終わったか」の主題の下、国民生活の面ではなお復興に取り残された分野の多いことや、復興の背後に1,000万人に上る生活保護すれすれの状態にある低所得者が存在していることを指摘し、経済成長のための施策と併行した社会保障政策の充実を訴えました。
このわずか12年後の1968(昭和43)年には、GNPがアメリカに次いで自由主義国家では世界第2位の規模となり、やがて「経済大国日本」という言葉が一般化しました。
高度経済成長は、所得の増大を通じて生活水準の向上に大きな役割を果たしました。
生活の目標として、昭和30(1955)年代には「3種の神器」(テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機)が、昭和40(1965)年代には「3C」(カラーテレビ、カー、クーラー)がもてはやされました。
しかし、一方で、高度経済成長は、社会に大きな変革をもたらし、社会保障に対する新たな要望(ニーズ)を生み出していきました。
農林水産業から工業へ、軽工業から重化学工業へという産業構造の変化、農村部から大都市部への大規模な人口移動による過密・過疎の問題、無医村・無医地区問題、経済成長による生活水準の向上から取り残された低所得者の問題、公害・自然破壊問題、上下水道やし尿・廃棄物処理施設などの社会資本の不足等、多くの課題が登場してきました。
また、大阪で万国博覧会が開催された1970(昭和45)年には、高齢化率は7%を超え、国連の定義にいう高齢化社会に入っていきます。
【過去問 平成27年問9E(こちら)】
1972(昭和47)年には、老人性痴呆の実態と要介護高齢者を抱える家族の苦労を描いた、有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』が、半年間で140万部販売のベストセラーとなり、高齢者介護問題が社会的な話題を呼び始めました(「寝たきり老人」については、すでに1968(昭和43)年頃から社会問題化していたとされます)。
昭和30年代の高度経済成長による国民の生活水準の向上に伴い、生活困窮者や援護が必要な人々に対する救済対策に加え、一般の人々が、疾病にかかったり、老齢になるなどにより貧困状態に陥ることを防ぐ施策(防貧施策)の重要性が増していきました。
そこで、昭和30年代半ばには、後述の通り、これまで医療保険や年金保険の適用外であった自営業者、農業従事者等を対象として全国民をカバーする医療保険制度(国民健康保険制度の改正)及び年金制度(国民年金制度)が導入されました。
これにより、日本の社会保障制度は、それまでの生活保護中心の時代から、被保険者が自ら保険料を支払うことによって疾病や老齢等の危険(リスク)に備える、社会保険中心の時代へと移っていきます。
ちなみに、労働分野については、この時期に日本型の雇用慣行が普及・定着していきます。
即ち、高度経済成長は、産業構造の急速な変化をもたらしました。
都市部などでは労働力不足、求人難の声が高まり、農村部から都市部へ人口が流入する都市化が急速に進展しました。労働力不足、求人難により新規学校卒業者への企業の求人も急増します。
1950年代後半には中学卒業者に対する求人が年々増加し、1960年代後半になると中学卒業者の進学率が急速に高まり、それとともに新規学校卒業者の主力は高校卒業者に移っていきました。新規高卒者の求人倍率は、国民皆保険・皆年金を実現する1961(昭和36)年に2倍を超え、1970(昭和45)年には7倍に達しました。
企業にとって労働力の確保・定着を図ることが重要な課題であり、賃金を地位や年齢の上昇に応じて労働者に分配し、年功序列により地位や賃金を保障することとしました。
これにより、労働者は子どもの教育費などで生計費が年々増大していったとしても対応することが可能となります。
また、新規学校卒業者を一括採用し、長期雇用(終身雇用)を前提として企業内訓練による人的資本形成を行い、企業固有の技術を持つ熟練労働者を確保する仕組みである「日本型雇用慣行」が大企業を中心に形成されていきました。
加えて、企業は労働力の確保・定着を図る観点から、若年層を中心として社宅や各種手当等の法定外福利厚生を充実させたことが、企業内福祉の充実につながりました。
長期雇用、年功的人事管理、企業別労働組合といったいわゆる「日本型雇用システム」は、(労働組合を除き)既に第2次世界大戦以前にもその萌芽がみられましたが、この時期に普及・定着していったものとされます。
なお、日本型雇用慣行の普及・定着に伴い、世帯構成についてはサラリーマンとして働く夫とそれを支える専業主婦が一般化し、世帯単位も夫婦と子どもから成る世帯が標準的なものとみなされるようになります。
国民の間に「中流意識」が普遍化するのもこの頃からとされます。
(ただし、上記のような「日本型雇用システム」が適用されている者(当該システムの恩恵を受けている者)は、実際は少なく(大企業等の労働者であって、3割程度)、多くの中小企業では、長期雇用・年功序列等を実現できていなかったという評価もあります。)
この時期の社会保障制度におけるキーワードをあげれば、第1に「国民皆保険・皆年金」であり、1960(昭和35)年頃までは「防貧」、後半は、「各種給付の充実・改善」です。
以下、この時期の具体的な施策について、やや詳しく見ます。
二 国民皆保険・皆年金の実施
この時期の社会保障制度の歴史で特筆すべきことは、第1に、「国民皆保険・皆年金」の実施です。
国民皆保険・皆年金の実施の背景としては、まず経済社会が戦後の混乱から立ち直りを見せる中で、全国民をカバーする社会保障制度の確立を求める声が大きく高まってきたことが挙げられます。
医療保険制度については、昭和30年代の初めには、農業、自営業などに従事する人々や零細企業従業員を中心に、国民の約3分の1に当たる約3,000万人が医療保険の適用を受けない無保険者でした。
大企業労働者と零細企業労働者、国民健康保険を設立している市町村とそれ以外の市町村住民間の「2重構造」が問題視されました。
また、1960(昭和35)年度に生活保護を受けた世帯のうち55%強は、世帯主又は世帯員の病気が原因でした。
こうした状況下で、医療保険未適用者の防貧対策として、国民皆保険の実現が強く求められるようになりました。
そこで、被用者保険に加入していない自営業者や農業従事者等はすべて国民健康保険に加入することを義務づける新しい国民健康保険法が1958(昭和33)年に制定され、国民皆保険体制が確立されることになりました(なお、国民健康保険法は、戦前の昭和13年に制定・施行されていましたが、基本的に市町村による任意の実施であり、任意加入の制度でした)。
施行に当たっては、4か年計画で準備が進められ、1961(昭和36)年4月には全国の市町村で国民健康保険事業が始められました。
一方、年金制度については、戦後、封建的な家族主義や相続制度が改められ、扶養意識が大きく変わる状況下で、自営業者や農業者などの被用者年金の対象とならない人々は老後の生活設計に大きな不安を抱き、年金制度の充実を強く求めるに至りました。
こうして、老後の所得保障のために、全国民を対象とした年金制度構想に関する議論が1955(昭和30)年頃から始まりました。
そして、1959(昭和34)年には国民年金法が制定され、1961(昭和36)年4月から全面施行されました。
【過去問 平成19年問7D(こちら)】
この結果、1961(昭和36)年には、「国民皆保険・皆年金体制」が確立し、これにより、すべての国民が必ず何らかの医療保険制度及び年金保険制度に加入することとなり、病気にかかった場合の医療費保障や、老後の所得保障等が確保されることとなりました。
国民皆保険・皆年金体制は、現在に至る日本の社会保障制度の根幹を成しています。
この高度経済成長がはじまったばかりという、まだ国が貧しい段階で全国民に等しく社会保険制度を適用し、不安のない社会をつくるべく国民皆保険・皆年金を実現したことの意義は、非常に大きいとされます。
※ 通算年金制度の創設:
なお、国民皆年金の実現により、すべての国民は分立したいずれかの公的年金制度の適用を受けることとなりました。
しかしながら、各公的年金制度は大部分が相互に関係なく創設され、しかも、老齢年金や退職年金を受けるには相当長期間(被用者保険では船員保険を除き20年、国民年金では25年でした)同一制度に加入していることが要件であったため、職場を移動して1つの年金制度から離脱した者には、その制度からの脱退に伴う一時金の給付が行われるにとどまっていました。
このため、国民年金制度制定の準備作業に並行して、各制度間の通算方法についての検討が進められた結果、1961(昭和36)年11月、「通算年金通則法」が公布施行され、同年4月に遡及適用となりました。
これにより、多数の公的年金制度相互間で加入期間を「数珠つなぎ」方式で通算する老齢年金(退職年金)に関する通算措置が実施されることとなりました(この「通算年金通則法」は、基礎年金を導入した昭和60年の改正の際に、役目を終え、廃止されました)。
三 各種給付改善と「福祉元年」
高度経済成長の過程で、国民生活の消費水準は向上しましたが、生活環境関係の社会資本の不足や、公害、社会保障の水準の低さなどが課題となり、公害対策や生活環境の整備を含む社会保障の内容の充実が図られていきました。
医療保険の制限診療(保険診療において抗生物質や抗がん剤等の使用が制限されていました)の撤廃や給付率の改善、年金水準の引上げ、生活保護基準の引上げ等、社会保障各分野で制度の充実、給付改善等が行われました。
それらの財源は、全体としては、経済成長に伴う税収増や社会保険料の収入増に支えられましたが、個別にみると、毎年財政対策に苦慮した事項もありました。
その典型的な例は、60年代において、国鉄、米の食管制度の赤字と並んで「3K」と呼ばれた政府管掌健康保険制度〔=現在の全国健康保険協会管掌健康保険(協会管掌健康保険)制度の前身〕の財政赤字対策です。
特例法やその延長等による応急措置で対応しながら、最終的には、1973(昭和48)年度末の累積赤字を棚上げするとともに、保険料率の引上げや国庫補助の定率化〔昭和22年の改正により、政府管掌健康保険の給付費については、国庫負担及び国庫補助は行われないこととなりましたが、この昭和48年の改正により、定率の国庫補助が行われることに改められたものです。健保法のこちらを参考〕等の対策で、財政安定化が図られることとなりました。
社会福祉の分野では、世界で初めての老人関係法といわれた老人福祉法(1963(昭和38)年)の制定をはじめ、福祉関係の主要な法制度が整備され、「福祉6法」体制が確立し、施策の内容も順次拡大していきました。
※「福祉6法」とは、生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、老人福祉法、知的障害者福祉法〔当時は精神薄弱者福祉法(平成10年改正)〕、母子及び寡婦福祉法〔当時は、母子福祉法。昭和55年の改正により「母子及び寡婦福祉法」に、平成26年の改正により「母子及び父子並びに寡婦福祉法」に改められました〕をいいます。
特に、女性の就業の拡大や核家族化の進展等から、保育所に対する需要(ニーズ)が高まり、地方自治体を中心に緊急整備が図られていきました。
そして、1971(昭和46)年に児童手当法が制定され、日本の社会保障制度の体系がほぼ整うことになりました。〔※「児童は手当に喜(46)こぶ」〕
1973(昭和48)年には、老人医療費支給制度の創設(老人福祉法の改正)により70歳以上の高齢者の医療費の自己負担無料化〔=老人医療費無料化〕を始めとして、医療保険制度では、健康保険の被扶養者の給付率の引上げ(7割給付)や高額療養費制度の導入、年金保険制度では、給付水準の大幅引き上げと物価スライド及び賃金スライド制の導入〔国年法では、物価スライド制の導入、厚年法では、賃金再評価(賃金スライド制)の導入〕等、大幅な制度拡充が行われ、「福祉元年」と呼ばれています。〔※「しあ(48)わせの年」〕
物価スライド制の導入により、この直後のオイルショックによるインフレにも対応することができ、公的年金制度は老後の所得保障の中核となっていきます。
※ 老人医療費無料化の背景:
1970(昭和45)年になると、日本は65歳以上人口(当時は「老年人口」)比率(高齢化率)が7.1%となり、国連の定義にいう高齢化社会に入りました。
【過去問 前掲の平成27年問9E(こちら)】
翌1971(昭和46)年に総理府(当時)が行った「老人問題に関する世論調査」によりますと、高齢者(当時は「老人」)の生活と健康を守るために、国の施策として一番力を入れて欲しいものについて、「老人医療費無料化」が44.0%と最も多い結果となりました。
一般に高齢者は低収入で、当時年金制度も未成熟であったこと、当時の医療保険の家族給付率が5割であったこと等から、高齢者は医療費負担のために受療を敬遠し、必要な医療が受けられない恐れがあると指摘されていました。
一方、1970年代前半になりますと、経済成長の成果を国民福祉の充実に還元しようとする動きが高まりました。既に、老人医療費の一部負担金(患者負担)を公費により肩替わりする制度は、東京都や秋田県など一部地方自治体において実施されていましたが、その後全国の多くの地方自治体に広がっていきました。
こうした状況を受けて、国も1972(昭和47)年の老人福祉法の一部改正により、翌1973(昭和48)年1月から、国の制度として老人医療費支給制度(老人医療費無料化)を実施したものです。
以上のような社会保障制度の発展により、社会保障給付費は、1955(昭和30)年度の3,893億円、1人当たり4,400円から、1975(昭和50)年度には11兆7,693億円、1人当たり10万5,100円と増大しています。
〔※ 大まかには、20年間で、約4千億円から約12兆円へのアップであり、約30倍の増加です。〕
国の一般歳出経費である社会保障関係費も、この期間に急増します。
社会保障関係費は、1955(昭和30)年度では、1,000億円をわずかに上回り、国家予算の約10%でしたが、1975(昭和50)年度では、39,282億円、約18.5%と拡大しています。
「福祉元年」以後、「福祉元年」に行われた医療、年金等、高齢者に対する制度の充実が、高齢化の進展とともに、年金受給者の増大や老人医療費の増大等を通じて、社会保障の規模を拡大していくことになります。
以上のような社会保障制度の形成の経過は、全体として見れば、労働力人口の増大と経済の飛躍的な拡大を前提としてなされてきたものです。
しかしながら、その後、これらの前提状況が崩れていく時代を迎えます。
〔3〕制度の見直し期(1970年代後半から80年代)
一 オイルショックと社会保障制度の見直し
医療保険、年金制度等の大幅な給付改善が行われた1973(昭和48)年の秋に、安価な石油に依存してきた経済社会に大きな転換を促す石油危機(オイルショック)が勃発しました。
石油価格の高騰は、消費者物価上昇率が1年間に約22%(1974(昭和49)年度)を記録するという「狂乱物価」と呼ばれたインフレをもたらし、企業収益を圧迫し、高度経済成長の終焉をもたらしました。
1974(昭和49)年度の実質経済成長率は、戦後初めてのマイナス(マイナス0.2%)を記録しています。
一方、社会保障制度では、インフレに対して給付水準を合わせていくために、年金、医療保険の診療報酬、生活保護制度の生活扶助費などについて、例えば、年金については、すでに見ました通り、オイルショックに対応した改定が行われ、医療保険については、1974年度の診療報酬改定において36%の引上げが行われ、生活扶助基準では20%引上げ等の高率の改定が行われるなど、これらの財源となる社会保障関係費が急増しました。
こうした行政需要の拡大にもかかわらず、経済不況により税収の伸びは鈍化し、一方で内需拡大のための経済対策が必要となり、財政支出が大幅に拡大されました。
そのため、1975(昭和50)年度補正予算において初めて特例公債〔いわゆる赤字国債〕が発行されました。
その後、財政赤字が拡大し、国債に依存した財政となり、第2次オイルショックが勃発した1979(昭和54)年度の予算では、国債依存度が約40%と過去最高となります。
こうした状況から、80年代に入って、「財政再建」が財政運営の目標となり、83(昭和58)年度予算以降、マイナスシーリングの設定が行われるなど、国の行財政改革が大きな課題となりました。
1980(昭和55)年には第2次臨時行政調査会が設置され(土光敏夫会長)、行財政改革の検討が進められました。
同調査会の答申等に基づき、歳出の削減・合理化が進められ、行政機構や補助金の見直し、国鉄等の3公社の民営化等とともに、社会保障関係予算についても厳しい歳出抑制が図られました。
このため「福祉元年」で充実が図られた医療保険、年金制度や老人医療費支給制度などの見直しも進められることとなりました。
特に、第1次産業や自営業者が減少するという産業構造の変化等を受けた国民健康保険や国民年金の取扱いをめぐり、日本の社会保障は、制度間調整の時代を迎えることとなりました。
また、1973(昭和48)年の第1次オイルショック(石油危機)以降、高度成長型経済から安定成長型経済への移行に伴って、雇用失業情勢にも困難な事態が生じることが予想され、労働者の雇用の安定と失業の予防を図ることが重要な課題となりました。
このため、1974(昭和49)年には、従来の失業保険制度に代わり雇用保険法が制定され、従来の失業対策(いわば事後的・消極的な雇用対策)を強化するとともに、失業の予防、就職の促進等(いわば事前的・積極的な雇用対策)も図るため、失業給付の内容が見直されました。
翌1975(昭和50)年には雇用調整給付金(1981年から雇用調整助成金)が創設され、景気の変動・産業構造の変動に対応し雇用の維持に重点を置いた雇用対策が講じられることとなりました。
また、こうした経済の変化への対応ばかりではなく、人口の高齢化の進展による高齢化社会の到来と、それに対する社会保障制度の対応が課題となり、老人医療費の負担のあり方や年金制度の安定的運営の方策等が大きな課題となってきました。
このように、この時期は、高度経済成長とともに拡大してきた社会保障制度について、経済成長の伸びが鈍化して安定成長に移行した経済社会の変化や、財政の悪化とその再建のための緊縮財政への移行という国の財政状況の変化に対応し、さらには将来の高齢化社会に適合するように、全面的な見直しが行われた時期です。
この時期のキーワードとしては、「社会保障費用の適正化・効率化」、「給付と負担の公平」、「財政調整」等があげられます。
以下、この時期の具体的な施策について、やや詳しく見ます。
二 老人保健制度の創設、医療保険制度及び年金制度の大改正
この時期の制度改正等の代表的なものとしては、老人保健制度の創設があります。この中で老人医療費無料化の見直しを行いました。
即ち、1973(昭和48)年に老人医療費の無料化を実施したところ、過剰受診等を引き起こして老人医療費の急増を招き、国民健康保険制度を始めとする医療保険制度の大きな財政負担となりました。
病院の待合室に高齢者がつめかける「病院のサロン化」(よく使われるジョークが、病院の待合室での高齢者たちの会話です。「今日は、田中さんは見えないね」「病気でもしたんだろう」)や「過剰受診・過剰診療」などの問題、また、高齢者福祉施設が量的に不十分であったことや世間体を気にして老人ホームへの入所を避ける層の存在から、病院に入院する高齢者の患者が増加し、いわゆる「老人病院」が増加するという問題、必ずしも入院治療を要しないが、寝たきり等の事情で入院を継続するという「社会的入院」といった問題が発生しました。
また、被用者人口の増大や人口の都市集中などにより、国民皆保険実現当時に半数弱を占めていた農家等の家族従業者や自営業主が減少し、一方で被用者保険の加入者が退職後に国民健康保険に移行したため、国民健康保険は高齢者の加入率が被用者保険に比べて高くなっていました。そこへ老人医療費急増の直撃を受けて国民健康保険の財政状況は非常に厳しくなりました。
さらに、日本人の疾病構造が、高血圧、脳血管疾患、心臓病などの生活習慣病中心に変化してきていた中で、高齢者の健康という観点からは、壮年期からの生活習慣病の予防や早期発見のための対策が重要でした。
そこで、壮年期(40歳)からの健康づくりと、老人医療費の公平な負担を図ることを目的として、1982(昭和57)年に「老人保健法」が制定され、老人保健制度が創設されました(昭和57年8月制定、昭和58年2月施行)。
【過去問 平成19年問7E(こちら)】
具体的には、健康への自覚を促し、適正な受療を図るという観点から老人医療費に対して患者本人の一部負担が導入されました。
あわせて、老人医療に要する費用について全国民で公平に負担するために、国、地方公共団体の負担とともに、医療保険各制度の保険者が共同で拠出する新しい負担方式が導入されました。この制度により、老人の加入割合が高い国民健康保険の財政負担は大幅に緩和されました。
また、1984(昭和59)年には、健康保険法等の一部改正により、被用者保険本人に対する10割給付(昭和22年から本人の自己負担はありませんでした)を見直して定率1割負担を導入するとともに、事業所の退職者が退職後に国民健康保険の加入者となるため給付水準が低下することや、退職後の医療費の負担を国民健康保険加入者が負担するという不合理を改善する観点から、退職者医療制度が導入されました。
【過去問 平成22年問7B(こちら)】
(なお、退職者医療制度は、平成18年の医療保険制度の改革により平成20年4月1日から廃止され経過的に存続していましたが、令和6年4月1日施行の改正により、この経過措置も廃止されました。)
国民健康保険制度においては、老人保健制度や退職者医療制度の導入により財政負担が軽減されることを踏まえ、国庫負担割合の見直しが行われました。
年金制度においては、1985(昭和60)年に、国民のすべてに基礎年金を保障するとともに、制度間における給付と負担の両面での公平の確保や、年金制度の安定的運営を図ることをねらいとして、従来職域集団ごとに分立していた制度を見直し、全国民共通の基礎年金制度を導入するという大改正が行われました。
従来の厚生年金保険等の被用者年金は、基礎年金の上乗せ給付(2階部分)として位置づけられました。
また、世代間の給付と負担の公平性を図る観点から厚生年金保険の給付水準の適正化(給付乗率の引下げ等)が行われたり、女性の年金権の確立(被扶養配偶者が国民年金の強制加入被保険者となる第3号被保険者の制度の新設)や障害基礎年金制度の導入(従来の障害年金より支給要件を緩和、20歳前傷病による障害基礎年金の創設)等も行われました。
〔4〕少子高齢社会に対応した制度構築(平成・令和、1989年以降)
一 バブル経済の崩壊と社会保障体制の再構築
(一)バブル経済の崩壊
日本経済は、1985(昭和60)年9月のプラザ合意により円高が急速に進行しましたが、「円高不況」を避けるために低金利政策を継続的に採用した結果、「金余り現象」による爆買いによって株価、地価などの資産価格が異常に値上がりするバブル経済の時代を迎えました。
日本の財政状況は好調な税収に支えられて好転し、国債残高も対GDP比では下落しました。
しかしながら、バブル経済の時代は長くは続かず、1990年代初頭には事実上バブル経済が崩壊し、安定成長の時代は終焉を迎えました。
バブル経済の崩壊以降、日本経済は低成長、マイナス成長時代に移行しましたが、一方で経済のグローバル化が進展し、企業活動における国際競争が激化しました。
企業活動では、経営の不確実性が増大し予測が困難な状況の中で、急激な変化に柔軟に対応するためにパートタイム労働者や派遣労働者といった非正規労働者の活用を図るようになりました。こうした結果、雇用者数に占める非正規労働者の割合が上昇しました。
また、世帯構成については、1990年代以降、共働き世帯が専業主婦世帯を上回るようになりました。
こうして従前の男性を中心とする正規労働者の長期勤続を前提とした日本型雇用慣行に変化がみられるようになりました。
なお、バブル経済下の1989(平成元)年には、高齢化社会に対応するための財源確保の観点から消費税が導入され、バブル経済崩壊後の1997(平成9)年には税率が3%から5%に引上げられています。
一方、1990年代に入り、日本の人口構造は生産年齢人口がそれまでの横ばいから減少に転じ、現役世代の負担感が急増する時期を迎えましたが、1994(平成6)年の総人口に占める65歳以上人口の割合(高齢化率)は14.5%を超え、国連の定義にいう「高齢社会」が到来しました。
7%の高齢化社会入りからわずか24年で14%の高齢社会に到達したわけであり、この時期にはそれ以前に増して急速なスピードで人口の高齢化が進んでいきました(7%の高齢化社会から14%の高齢社会までに要する年数を「倍化年数」といいます)。
日本の高齢化の特徴は、出生数の急激な減少や平均寿命の伸長等から、短期間に高齢化が進み、かつ、高齢化のピーク時においては、その水準が欧米諸国よりも高いという点にあります。
65歳以上人口の割合が7%から倍の14%に達した所要年数(倍加年数)をみますと、スウェーデンでは85年、イギリスでは46年、フランスでは116年を要しているのに対して、日本の場合は、1970(昭和45)年の7.1%から1994(平成6)年には14.1%となり、所要年数はわずか24年となっています。
その後、2013(平成25)年9月における高齢化率は25.1%と25%を超えました(4人に1人を上回る状態)。
【過去問 前掲の平成27年問9E(こちら)】
その後の高齢化率は、次のように推移しています(各年度の「高齢社会白書」参考)。
・2015(平成27)年 = 26.6%
・2016(平成28)年 = 26.7%
・2017(平成29)年 = 27.7%
・2018(平成30)年 = 28.1%。28%を超えました(「令和元年版高齢社会白書」。令和元年6月18日公表)
・2019(令和元)年 = 28.4%(「令和2年版高齢社会白書」。令和2年6月18日公表)
・2020(令和2)年 = 28.8%(「令和3年版高齢社会白書」。令和3年6月11日公表)
・2021(令和3)年 = 28.9%(「令和4年版高齢社会白書」。令和4年6月14日公表)
・2022(令和4)年=29.0%(「令和5年版高齢社会白書」。令和5年6月20日公表)
・2023(令和5)年=29.1%(「令和6年版高齢社会白書」。令和6年6月21日公表)。
29%をこえました。
※ 現在、高齢化率は、30%弱と押さえておきます。
ちなみに、2017(平成29)年における国立社会保障・人口問題研究所による予測では、2036(令和18=旧平成48)年に高齢化率は33.3%となり、3人に1人が65歳以上の者となるとの推計です。
2065(令和47=旧平成77)年には、高齢化率は38.4%、即ち2.6人に1人が老年人口となると推計されています。
また、1989(平成元)年の「1.57ショック」により、少子化対策が重要な政策課題として急浮上しました。
「1.57ショック」とは、1人の女性が生涯に何人の子どもを産むかという理論的な数値である合計特殊出生率が、1989(平成元)年には1.57人と、それまで戦後の最低値であった1966(昭和41)年の1.58人を下回る戦後の最低値を記録したことの驚きをあらわす言葉です。
※ ちなみに、1966(昭和41)年は、干支(えと)のひとつの「丙午(ひのえうま)」の年であり、「ひのえうま」に関する迷信が、この年の出生率の低下に影響を与えたものと考えられています。
※ なお、戦後、合計特殊出生率が最も低かったのは、2005(平成17)年の1.26です。
しかし、後述の通り、その後、令和4年に1.26となり、令和5年には1.20となりました。
【選択式 労働一般 平成30年度 A(「次世代法」のこちら(労働一般のパスワード))】
令和3年は、1.30です(「人口動態統計」のこちら)。
令和4年は、1.26です(7年連続減少で、過去最少。令和5年6月2日公表)
令和5年は、1.20です(8年連続減少で、過去最少。令和6年6月5日公表)
※「合計特殊出生率は、悲痛(1.20)だ。」
以上のように低成長経済、少子高齢社会の進展により、従来の社会保障制度の前提が成り立たないこととなっていきました。
(二)社会保障体制の再構築(勧告)
21世紀を目前に控えた時期に、「20世紀末の状況を見据え、21世紀の社会保障のあるべき姿を構想し、今後我が国社会保障体制の進むべき途」を設定しようとする動きも始まりました。
社会保障制度審議会では、1991(平成3)年から社会保障将来像委員会を設けて、21世紀に向けての社会保障の基本的在り方や各制度の具体的見直し等について審議を行い、同委員会第1次報告「社会保障の理念等の見直しについて」(1993(平成5)年)の中で、社会保障について、「国民の生活の安定が損なわれた場合に、国民にすこやかで安心できる生活を保障することを目的として、公的責任で生活を支える給付を行うもの」と定義しました(こちら以下)。
社会保障制度審議会では、この報告等を基にして、1995(平成7)年7月に「社会保障体制の再構築(勧告)~ 安心して暮らせる21世紀の社会をめざして」を取りまとめました。
その中で、1950(昭和25)年の勧告当時は社会保障の理念は最低限度の生活の保障であったが、1995年の勧告では「広く国民にすこやかで安心できる生活を保障すること」が社会保障の基本的な理念であるとし、国民の自立と社会連帯の考えが社会保障制度を支える基盤となることを強調しました。
勧告の中で示された普遍性・公平性・総合性・権利性・有効性という社会保障推進の5原則とそこに示された基本的考え方の多くは、社会保障体制の再構築を求めるものであり、後の介護保険制度の法制化等に結びつきました。
(三)構造改革
バブル経済の崩壊で日本経済が低迷する中、戦後の経済社会システムが日本の活力ある発展を妨げている状況が生じているとして、新しい経済社会システムを創造するために一体的な改革が必要であるという認識が強まりました。
そこで、1997(平成9)年以降、行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革及び教育改革の「6つの改革」が推進されました。
このうち行政改革では「中央省庁等改革基本法」に基づき中央省庁の再編が進められ、その結果、厚生省と労働省は統合され、2001(平成13)年1月に厚生労働省が誕生しました。
また、総理府に置かれていた社会保障制度審議会は廃止となり、内閣府に設置された経済財政諮問会議と厚生労働省に新設された社会保障審議会に引き継がれました。
社会保障改革については、社会保障構造改革の第一歩として、後述の介護保険制度の実施のほか、新たな高齢者医療制度の創設等の医療保険制度の改革に取り組むこととされました。
また、当時、悪化しつつあった財政状況を改善するための財政構造改革については、1997(平成9)年12月に「財政構造改革の推進に関する特別措置法」(財政構造改革法)が成立しました。
しかし、財政構造改革法制定と同時期の1997(平成9)年に、山一證券等の金融機関の破綻が相次いだため、金融情勢が不安定になるとともに、企業・家計の不安感は急に高まり、経済活動を収縮させました。翌1998(平成10)年度もマイナス成長が続き、デフレ・スパイラルが懸念されるようになりました。
そのため、財政再建策はいったん棚上げされ、景気刺激策がとられたものの、景気は回復せず、日本の財政赤字はますます悪化しました。
このため、「構造改革なくして成長なし」との考え方の下に、構造改革と財政健全化が進められることになります。
二 年金制度の見直し
少子高齢化が進展する状況の下、年金制度の在り方については、「60歳引退社会」を前提とするものから、「65歳現役社会」を実現するため、高齢者の雇用を促進する本格的な高齢社会にふさわしい年金制度とすることが求められました。
そこで、1994(平成6)年の改正において、厚生年金保険法の特別支給の老齢厚生年金の定額部分の支給開始年齢を60歳から段階的に65歳に引き上げることに改められたほか、在職老齢年金の仕組みも、賃金の増加に応じて、賃金と年金額の合計額が増加するよう改善する等の見直しが行われました。
また、1999(平成11)年の財政再計算において、将来の現役世代の負担がさらに増加することが見込まれたため、2000(平成12)年の改正において、特別支給の老齢厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢を60歳から65歳に段階的に引き上げるほか、報酬比例部分の給付水準を5%適正化すること等の改正が行われました。
その後も、少子高齢化が一層進行し、2002(平成14)年の将来推計人口をもとに行われた2004(平成16)年の財政再計算においては、制度の見直しを行わなければ保険料の大幅な引上げが必要となるなど、給付と負担の両面の見直しが急務の課題となりました。
また、年金制度については、それまで5年ごとの財政再計算の際に、人口推計や将来の経済見通し等の変化を踏まえて、給付内容や将来の保険料水準を見直してきましたが、その結果として、若い世代にとっては将来の給付水準も保険料水準も見通しにくいものとなり、公的年金制度に対する不安につながっているとの意見が強まっていました。
そこで、2004(平成16)年の改正において、保険料の引上げを極力抑制しつつ、将来の保険料負担の上限を設定して固定し(保険料水準固定方式)、その保険料上限による収入の範囲内で給付水準を調整する仕組み(マクロ経済スライド)の導入などによって、長期的な給付と負担の均衡を確保し、制度を将来にわたって持続可能とするための改革が行われました。
三 医療保険制度の見直し
医療については、21世紀の本格的な少子高齢社会においても、信頼できる安定した医療保険制度を堅持していくために、医療提供体制を含め、制度全般にわたる抜本的な改革が進められました。
2002(平成14)年には保険料率の引上げをできる限り抑制し、また、医療保険の制度間の給付率を統一して公平で分かりやすい制度とする観点から、医療保険制度間を通じて一部負担の割合が統一されました(原則3割負担)。
また、医療提供体制においては、入院医療を提供する体制の整備、医療における情報提供の推進、医療従事者の資質の向上等が主要な課題となり、2000(平成12)年の改正では、精神病床、感染症病床、結核病床以外の病床について、主として慢性期の患者が入院する療養環境に配慮した「療養病床」と医師・看護師の配置を厚くした「一般病床」に区分されるとともに、医療機関に関する広告規制の緩和や、医師・歯科医師の臨床研修の必修化などが措置されました。
さらに、2006(平成18)年の医療制度改革において、生活習慣病の患者・予備群の減少や平均在院日数短縮を図るとともに保険給付の見直しなどの医療費適正化の総合的な推進、新たな高齢者医療制度の創設(高齢者医療確保法の制定)、都道府県単位を軸とした保険者の再編・統合(健保法における全国健康保険協会管掌健康保険の創設による都道府県単位保険料率の制度等)の3本柱からなる健康保険法等の一部を改正する法律が成立しました。
また、医療法等の改正が行われ、医師確保対策の実施、患者の視点に立った医療情報提供体制の充実、医療機能の分化・連携を図る新しい医療計画制度の着実な推進を図ることとされました。
健康保険法等においては、入院時生活療養費が創設され、また、従来の特定療養費が保険外併用療養費に改められるといった改正も行われています。
とりわけ重要なのは、老人保健法が全面改正されて高齢者医療確保法に見直されたことです(2008(平成20)年4月1日施行)。
75歳以上の者(後期高齢者)については、独立した医療保険制度を定め(後期高齢者医療制度)、都道府県単位で全ての市町村が加入する後期高齢者医療広域連合を運営主体とするとともに、65歳以上75歳未満の者(前期高齢者)については、当該者を従前(既存)の医療保険制度(国民健康保険、被用者医療保険)に加入させたまま、医療保険者間の医療費の負担の不均衡を防止する見地から財政調整の制度を定めることを骨格としたものです。
また、健康保険においては、従来の政府管掌健保の代わりに、新たに創設された全国健康保険協会を保険者とする協会管掌健保が実施されました(平成20年10月1日施行)。
これにより、都道府県を単位とした保険料率を設定して都道府県を主体とした財政運営を行うなど、業務の合理化と適正化を図ろうとしたものです。
【過去問 平成22年問7C(こちら)】
前記の後期高齢者医療制度ともに、医療保険制度の運営主体の広域化(都道府県化)が図られたことになります(その後の平成30年4月1日施行の国民健康保険法の改正により、従来の市町村が行う国民健康保険から、都道府県及び市町村が行う国民健康保険に改められたことにもつながっています)。
四 育児・介護に関する改正
共働き世帯の増加にみられますように、女性労働者は着実に増加し、女性の労働参加が高まっていきました。
一方で、昭和50年代頃までは、多くの職場において女性を単純、補助的な業務に限定し男性とは異なる取扱いを行うなど、企業の対応は必ずしも女性の能力発揮を可能とするような環境が整えられているとはいえない状況にあり、こうした環境を整備することが大きな課題となっていました。
このような状況を踏まえ、「国際婦人の10年」の最後の年である1985(昭和60)年に「男女雇用機会均等法」が制定されました。
同法の施行により、企業における女性活用の意欲が高まるとともに、女性の社会進出が一層進む形となりました。
1990年代以降、雇用者の共働き世帯が専業主婦世帯(男性雇用者と無業の妻からなる世帯)を上回りましたが、一方で、当時女性が仕事を続ける上で最も困難な障害として育児が挙げられており、育児と仕事の両立のための支援対策の充実が急務となりました。
こうした状況の中で、労働者が仕事も家庭も充実した生活を送ることができる働きやすい環境づくりを進めるため、1991(平成3)年に「育児休業等に関する法律」(育児休業法)が制定され(1992年施行)、1歳に満たない子を養育する労働者について、育児休業を取得することができる権利が明確化されました(ただし、当時は、介護休業は含まれていません。平成7年に育児介護休業法に改正され、介護休業が努力義務化され、平成11年に介護休業が義務化されました)。
また、1995(平成7)年より、雇用保険の被保険者が育児休業を取得した場合に育児休業給付金が支給されることとなりました。
なお、1994(平成6)年6月に成立した健康保険法等の改正及び同年11月に成立した国民年金法等の改正により、育児休業期間中の厚生年金保険料や健康保険料等の本人負担分が免除されました(後の改正により、事業主負担分も免除されました)。
また、核家族化や共働き世帯の増加の一方で高齢化が進行したため、家族による介護が容易でなくなってきました。
このため、1999(平成11)年に施行された「育児・介護休業法」に基づき、介護休業制度が義務化されました。
さらに、1999(平成11)年の施行(平成10年創設)により、雇用保険の被保険者が介護休業を取得した場合に、介護休業給付金が支給されることとなりました。
五 ゴールドプランから介護保険制度の創設
(一)ゴールドプランの策定と福祉8法の改正
「寝たきり老人」が社会問題化する1968(昭和43)年(1968年9月の全国社会福祉協議会「居宅ねたきり老人実態調査」結果公表が契機となったとされます)以降、低所得者の独居老人世帯を対象に家事・介護サービスを提供する老人家庭奉仕員派遣事業が全国的に実施されましたが、必ずしも要介護老人のケアに重点が置かれていたわけではなく、施設整備を補完するものでしかないものでした。
しかしながら、老後も可能な限り住み慣れた地域社会で暮らしたいという高齢者の希望を尊重すべく、1975(昭和50)年以降、在宅での福祉が推進されるようになりました。
このため、1978(昭和53)年以降からは、ショートステイ(寝たきり老人短期保護事業)やデイサービス(通所サービス事業)が国の補助事業となりました。
在宅での福祉が推進されていく中で、在宅介護サービスの質を向上し、民間部門を中心に供給主体を多元化して必要なサービス量を確保していくため、その担い手として質の良い人材を確保していくことが課題となりました。このため、1987(昭和62)年に「社会福祉士及び介護福祉士法」が制定され、福祉専門職が制度化されました。
1989(平成元)年には、高齢者に対する保健福祉サービスを一層充実すべきとの声が高まる中、消費税導入の趣旨を踏まえ、高齢者の在宅福祉や施設福祉などの基盤整備を促進することとされました。
このため、20世紀中に実現を図るべき10か年の目標を掲げた「高齢者保健福祉推進10か年戦略(ゴールドプラン)」が厚生・大蔵・自治の3大臣の合意により策定され、サービス基盤の計画的整備が図られることになりました(消費税導入後の参議院選挙で大敗した自民党が野党対策として取り上げたものとされます)。
このゴールドプランにより、2000(平成12)年までにホームヘルパー10万人、デイサービス1万か所、ショートステイ5万床と在宅福祉対策を飛躍的に拡充することとしたほか、特別養護老人ホーム24万床、老人保健施設28万床に増設する等の大幅な拡充が目標とされました。
同プランは、1994(平成6)年に全面的に見直され、当面緊急に行うべき高齢者介護サービス基盤の整備目標の引上げを図り、今後取り組むべき施策の基本的枠組みを示した「新ゴールドプラン」が同じく3大臣の合意により策定されました。
これにより、地方の需要を踏まえた更なる高齢者介護対策の充実が図られることとなりました。
一方、1990(平成2)年には、ゴールドプランを実施するための体制づくりを図る等の観点から、福祉関係8法(老人福祉法、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、児童福祉法、母子及び寡婦福祉法、社会福祉事業法、老人保健法、社会福祉・医療事業団法(社会福祉・医療事業団法は、のちに平成14年の「独立行政法人福祉医療機構法」の制定に伴い廃止されています))の改正が行われました。
このうち、改正老人福祉法においては、①在宅福祉サービスの積極的な推進、②在宅・施設サービスの実施に係る権限の市町村への一元化、③各地方自治体における老人保健福祉計画策定の義務づけ等が図られました。
(二)介護保険制度の創設
増大する介護需要に対して新ゴールドプランが策定されたものの、施設の整備だけでなく要介護高齢者本人の意思を尊重し、本人の自立にとって最適のサービスを提供できる体制の確保が必要と考えられました。
また、バブル経済崩壊後の経済情勢や国の財政収支の悪化を踏まえ、一般財源だけでは高齢者のケアをまかなうのは難しいとの政策判断から、1994(平成6)年末には介護保険の構想が提示されています。
このように老後の最大の不安要因である介護問題に対応するために、介護が必要な高齢者等の介護を社会全体で支え、利用者本位の総合的な介護サービスを提供し、多様なサービス供給主体の参入によるサービスの質的向上を図る等の観点から、1997(平成9)年12月に介護保険法が制定され、2000(平成12)年4月から施行されました。
介護保険制度は、老人福祉と老人医療に分かれていた高齢者の介護制度を再編成し、社会保険の仕組みを活用しながら、利用者の希望を尊重した総合的な介護サービスを受けられるようにするものです。
そして、介護保険制度は、これまで社会福祉分野では基本となっていた措置制度(福祉サービスの利用に当たって、行政機関が、サービスの実施の要否、サービスの内容、提供主体等を決定して、行政処分としてサービスを提供する仕組み)を見直し、利用者とサービス提供者間の契約による利用方式に変更するものです。
こうした措置制度の見直し、利用者の選択を尊重した利用者本位の利用方式という考え方は、1997(平成9)年の児童福祉法の改正による保育所入所方式の変更や、ひいては社会福祉基礎構造改革へとつながっています。
なお、本格的な介護保険制度は、世界的にみてもドイツ(1994年成立)に続くものでした。また、介護保険制度は、1960年代の国民健康保険制度及び国民年金制度以来の新しい社会保険制度の創設となりました。
介護保険制度の創設により、医療保険制度が担っていた高齢者医療のうち、介護的色彩の強い部分が介護保険に移行しました。
六 社会福祉制度の見直し
社会福祉制度においても、少子高齢化の進展等による福祉サービスに対する需要(ニーズ)の増大・多様化等に対応して、制度の見直しや計画的な基盤整備が進められました。
福祉制度の見直しの背景には、1981(昭和56)年の国際障害者年等を契機に広まってきたノーマライゼーションの理念の一般化、サービス利用者の一般化やサービス内容の質の向上、在宅福祉の強化と保健・医療・福祉の総合的サービスの提供、住民に身近な市町村中心の福祉行政の展開、利用者本位・自立支援、民間活力の活用といった、福祉分野における新たな考え方が基礎となっています。
前記の通り、1989(平成元)年には、高齢者福祉分野においてゴールドプランが策定され、さらに、1994(平成6)年には、児童福祉分野においてエンゼルプラン(「子育て支援のための総合計画」)が策定され、翌年には、障害保健福祉分野において障害者プランが策定されました。
これらのプランにより、目標値を設定して、計画的かつ重点的に予算を投入しながら基盤整備が図られていきました。
これら3つのプランは、5年から10年という長期計画であるという特徴の他に、関係省庁間で合同して策定されたこと、関係省庁の施策も盛り込まれているといった特徴も持っています。
七 少子化対策
少子化問題については、前記の「エンゼルプラン」策定後も少子化が更に進行したことから、新たな対策が求められました。
少子化進行の主な要因としては、晩婚化・非婚化等による未婚率の上昇が挙げられます。
また、その背景として固定的な性別役割分業を前提とした職場優先の企業風土、核家族化や都市化の進行等により、仕事と子育ての両立の負担感が増大していることや、子育てそのものの負担感が増大していることがあると考えられました。
このため、仕事と子育ての両立に係る負担感や子育ての負担感を緩和・除去し、安心して子育てができるような環境整備を図るため、1999(平成11)年12月に「少子化対策推進基本方針」(少子化対策推進関係閣僚会議)が策定され、この基本方針に基づき同月に「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について」(新エンゼルプラン)が策定されました。
さらに、2002(平成14)年、少子化対策の一層の充実に関する提案として「少子化対策プラスワン」が取りまとめられ、「子育てと仕事の両立支援」が中心であった従前の対策に加え、「男性を含めた働き方の見直し」、「地域における子育て支援」、「社会保障における次世代支援」、「子どもの社会性の向上や自立の促進」が方向として示されました。
同プランでは、社会全体での次世代の育成を支援することを表すため、「次世代育成支援」という言葉が政府の公式文書として初めて使用されました。
「少子化対策プラスワン」を踏まえて、2003(平成15)年には「次世代育成支援対策推進法」が制定され、次世代育成支援対策についての基本理念が定められ、地方公共団体と合わせて事業主に対して次世代育成支援に向けた具体的な行動計画の策定が義務づけられました(一般事業主行動計画等の規定は、平成17年4月1日施行です)。
次世代法は、当初、平成27年3月31日までの時限立法でしたが、平成26年の改正により、さらに10年延長されました(さらに、令和6年の改正により、10年延長され、令和17年3月31日まで有効となりました)。
また、同2003(平成15)年には、「少子化社会対策基本法」が成立し、2004(平成16)年12月に「子ども・子育て応援プラン」が策定されました。
八 リーマンショック
バブル経済の崩壊あたりの時期から経済のグローバル化が進展し、企業にとって人件費の負担が重くのしかかるようになったため、企業はパートタイム労働者や派遣労働者の活用を一層図るようになりました。
こうした中、1999(平成11)年には、厳しい雇用失業情勢や働き方の多様化を背景として、労働力需給のミスマッチの解消を図り、多様なニーズに応えていくために労働者派遣法が改正され、労働者派遣が認められる業務が原則自由化(ネガティブリスト化)されました。
また、2003(平成15)年の同法改正によって、2004(平成16)年3月から製造業務への派遣も解禁されるなど、労働者派遣の規制緩和が進められていきました。
人件費負担に悩む企業は、正規労働者を抱えず非正規労働者に代替する動きを進めた結果、雇用者比率に占める非正規労働者の比率が3分の1に達し、社会保障の枠組みからはずれる層の問題が顕在化しました。
また、国民の間に生じた格差の拡大傾向、若年失業の増大等を背景に、多くの国民が将来の生活に強い不安を抱くようになります。
その後、日本経済は、2008(平成20)年9月に発生したリーマン・ショック等により低迷し、財政構造の悪化が更に進行しました。
こうした経済社会状況を踏まえ、「国民の安心・安全を確保するために社会保障の必要な修復をするなど安心と活力の両立を目指して(中略)必要な対応等を行う」(2009年6月23日閣議決定「経済財政改革の基本方針2009 ~安心・活力・責任~」)こととされ、社会保障費削減の方針は転換されることとなります。
この時期、少子高齢化は更に進展し、日本は総人口が減少するといった人口減少社会を迎えようとしています。また、高齢化や未婚化により単身世帯が目立って増加していました。
九 社会保障と税の一体改革
以上のような経済社会の変化に対応するための近年の見直しの中で最も大きなものは、「社会保障と税の一体改革」です。
急速な少子高齢化が進む中、社会保障の費用が急速に増加し、社会保障制度を財政的にも仕組み的にも安定させることが必要となってきたことから、2008(平成20)年の「社会保障国民会議」での議論を皮切りに、社会保障改革の全体像や、必要な財源を確保するための消費税を含む税制抜本改革について検討が進められました。
その結果、2012(平成24)年に成立した「社会保障制度改革推進法」において、年金・医療・介護・少子化対策の4分野の改革の基本方針が明記されるとともに、同年に成立した「税制抜本改革法」において消費税率の引上げ等が定められました。
【過去問 平成27年問9A(こちら)】
その後、社会保障制度改革推進法に基づき設置された「社会保障制度改革国民会議」では、各分野の改革の具体的方向性が議論され、2013(平成25)年8月に取りまとめられた報告書の総論においては、日本の社会保障モデルを「1970年代モデル」から「21世紀(2025年)日本モデル」へと転換を図り、全ての世代が年齢ではなく負担能力に応じて負担し支え合う「全世代型の社会保障」を目指すべきとされました。
この報告を踏まえて、2013年12月に「持続可能な社会保障制度の確立を図るための改革の推進に関する法律」(社会保障改革プログラム法)が成立・施行され、同法に基づき、2014(平成26)年以降順次、社会保障4分野(年金、医療、介護、少子化対策)の改革が進められています。
【過去問 平成27年問9B(こちら)】
次の図が概要です。
【平成29年版厚生労働白書の25頁から転載】
以下、「社会保障と税の一体改革」以後の主な改正を挙げておきます。
(一)年金
2004(平成16)年の年金制度の大改正後も、現在に至るまで、公的年金制度の持続可能性を高め、少子高齢化に対応するための様々な改正が行われています。
詳細は、国年法のこちら以下(リンク先は見なくて結構です)や厚年法のこちら以下でご紹介していますが、とりわけ、平成24年に制定されたいわゆる被用者年金一元化法(【平成24.8.22法律第63号】)による改正は、厚生年金保険制度に公務員及び私学教職員も加入することとし、共済年金制度を厚生年金保険制度に統合したものであり、昭和60年の基礎年金制度の創設以来の大きな見直しとなりました。
そのほか、短時間労働者に対する被用者保険の適用拡大に関する改正(平成24年制定のいわゆる年金機能強化法(【平成24.8.22法律第62号】)に基づく平成28年10月1日施行のものと、平成28年制定の持続可能性向上法(【平成28.12.26法律第114号】)に基づく平成29年4月1日施行のもの(任意適用事業所の申出等の追加改正)があります)も、重要です。
短時間労働者に対する被用者保険の適用拡大については、その後も、いわゆる「4分の3基準を満たさない短時間労働者」の要件の緩和(5要件から4要件に)や、特定適用事業所の使用労働者数の要件の緩和といった見直しが行われています(令和5年版「改正・最新判例」のこちら以下)。
(二)医療
医療保険制度における近時の大きな改正としては、医療保険制度改革法(正式には、「持続可能な医療保険制度を構築するための国民健康保険法等の一部を改正する法律」。【平成27.5.29法律第31号】)による見直しがあります(原則として、平成28年4月1日施行です)。
このうち、健康保険法等において、保険外併用療養費のうち、患者申出療養が創設される等の改正が行われています(健保法のこちら以下)。
また、同改正法により、国民健康保険法の保険者が見直されました(平成30年4月1日施行)。
即ち、国民健康保険の保険者は、従来は、市町村及び国民健康保険組合でしたが、市町村が行う国民健康保険については、都道府県を単位として、都道府県及び市町村(「都道府県等」)がともに保険者となることに改められました。「都道府県等が行う国民健康保険」です。
都道府県が財政運営の責任主体となり、安定的な財政運営や効率的な事業の確保等の国保の運営に中心的な役割を担うことで、制度の安定化を目的としたものです。
これにより、国民健康保険(国民健康保険組合が行う国保は除く)、全国健康保険協会が管掌する健康保険及び後期高齢者医療制度のいずれも、都道府県ベースの運営が行われることとなりました。
(三)介護
介護については、前述の通り、介護保険法が平成9(2007)年に制定され、平成12(2010)年から施行されていますが、その後、要介護者(要支援者。以下、「要介護者等」といいます)の増加による介護費用の急増等の問題に対応するため、数次の大きな改正が行われています。
とりわけ、介護、医療、予防、住まい、生活支援サービスが連携した要介護者等への包括的な支援をする体制(地域包括ケアシステム)を推進し深化させるということが重視されています(介護保険法のこちら以下(社会一般のパスワード))。
(四)少子化対策
合計特殊出生率は、前述の通り、2005(平成17)年に史上最低の1.26となり、その後、横ばいもしくは微増傾向となっていましたが、平成26年に低下し、平成27年に再上昇した後、平成28年からは再び低下しており、長期的な少子化の傾向は継続しています。
近時の合計特殊出生率は、次のように推移しています。
・2016(平成28)年 = 1.44
・2017(平成29)年 = 1.43 (前年比0.01ポイント下降)
・2018(平成30)年 = 1.42(前年比0.01ポイント下降)
・2019(令和元)年 = 1.36(4年連続の低下で2007(平成19)年以来12年ぶりの低水準)
・2020(令和2)年 = 1.34(5年連続の低下で2007(平成19)年以来13年ぶりの低水準)
・2021(令和3)年 = 1.30(6年連続の低下で2007(平成19)年以来14年ぶりの低水準)(令和4年6月3日公表)
・2022(令和4)年=1.26%(7年連続の低下で過去最少。「令和5年版高齢社会白書」)(令和5年6月20日公表)
・2023(令和5)年=1.20%(8年連続の低下で過去最少。「令和6年版高齢社会白書」)(令和6年6月5日公表)
ちなみに、2017(平成29)年に発表された国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(2017年推計)」によりますと、現在の傾向が続けば、2065年には、日本の人口は8,808万人、1年間に生まれる子どもの数は現在の半分程度の約55万人となり、高齢化率は約38%に達するという厳しい見通しが示されています。
【「令和2年(2020)人口動態統計月報年計(概数)の概況」の4頁から引用】
1 子ども・子育て支援新制度
近時の少子化対策としては、まず、子ども・子育て支援新制度の成立が挙げられます。
2012(平成24)年8月にいわゆる「子ども・子育て関連3法」(「子ども・子育て支援法」、「就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の一部を改正する法律」、「子ども・子育て支援法及び就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」)に基づく「子ども・子育て支援新制度」が成立し、2015(平成27)年4月から施行されました。
本制度では、「保護者が子育てについての第一義的責任を有する」という基本的な認識の下に、実施主体である市町村が、幼児期の学校教育・保育、地域の子ども・子育て支援を総合的に推進することとしています。
具体的には、①認定こども園、幼稚園、保育所を通じた共通の給付(「施設型給付」)及び小規模保育等への給付(「地域型保育給付」)の創設、②認定こども園制度の改善、③地域の実情に応じた子ども・子育て支援の充実を図ることとするものです。
2 待機児童の解消などに向けた取組み
また、待機児童の解消に向けて、2013(平成25)年4月から、「待機児童解消加速化プラン」に基づく取組みが進められています。
2016(平成28)年4月からは、事業主拠出金制度に基づく企業主導型保育事業が実施されており(ただし、近時、撤退が目立つ等の報道があります)、また、保育士等の処遇改善も行われているところです。
3 子供の貧困対策
経済状況の低迷、いわゆるひとり親家庭(大人が一人で子供がいる現役世帯)の増加といった原因により、子供の貧困問題もクローズアップされました。
「平成25年国民生活基礎調査」によると、子供の貧困率は16.3%であり、また、ひとり親家庭の貧困率は54.6%でした(なお、「国民生活基礎調査」における貧困率は、2010(平成22)年以降の大規模調査年のみで掲載されています)。
子どもの貧困対策を総合的に推進するため、「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が2014(平成26)年1月17日に施行され、同年8月には「子供の貧困対策に関する大綱」が閣議決定されました。
大綱では、生活保護世帯に属する子供の高等学校等進学率、スクールソーシャルワーカーの配置人数、ひとり親家庭の就業率、子供の貧困率など、子供の貧困に関する25の指標が定められ、指標の改善に向けて、教育の支援、生活の支援、就労支援、経済的支援などの各分野で重点施策が進められています。
例えば、厚生労働省では、ひとり親家庭の子どもへの学習支援の充実や「生活困窮者自立支援法」による生活困窮世帯の子どもに対する学習支援事業の実施、ひとり親家庭の親の学び直し支援などによる就業支援などを進めています。
また、2015(平成27)年12月には、「子どもの貧困対策会議」において、ひとり親家庭や多子世帯の自立支援に向けて、「すくすくサポート・プロジェクト」(すべての子どもの安心と希望の実現プロジェクト)が策定されています。
「平成28年国民生活基礎調査」では、子供の貧困率は13.9%となり、平成25年調査と比べて2.4ポイント改善し、また、ひとり親家庭の貧困率は50.8%となり、前回調査と比べて3.8ポイント改善しています。
「2019(令和元)年国民生活基礎調査」では、子どもの貧困率は13.5%であり、2015(平成27)年調査と比べて0.4ポイント改善しています。
(なお、「2020(令和2)年国民生活基礎調査」については、新型コロナウイルス感染症への対応等の観点から中止となりました。)
「2022(令和4)年国民生活基礎調査」(令和5年7月4日公表)では、子どもの貧困率は11.5%であり、前回の令和元年調査と比べて2.5ポイント改善しています。
(五)障害者福祉
1 支援費制度の導入
2000(平成12)年5月に「社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する法律」(社会福祉事業法等改正一括法)が成立しました。
社会福祉事業を取り巻く環境の変化や、少子高齢社会において増大・多様化する福祉需要に対応し、利用者の信頼と納得が得られる福祉サービスが効率的に提供されるよう、社会福祉サービスの利用方法や社会福祉法人の在り方、利用者の権利擁護の方策など社会福祉制度全般に通じる事項の改革を内容とする社会福祉基礎構造改革について定めたものです。
この中で、障害者福祉サービスについては、より利用者の立場に立った制度を構築するため、従来の行政処分によりサービス内容を決定する福祉サービスの利用方式(措置制度)を改め、利用者が事業者と対等な関係に基づきサービスを選択する利用方式(支援費制度)を導入し、利用者保護と権利擁護、福祉サービスの評価システムや情報公開などによる福祉の質の向上と、事業の透明性の確保、都道府県地域福祉支援計画、市町村地域福祉計画の策定などによる地域福祉の推進が図られることとなりました。
2 障害者自立支援法の制定
支援費制度導入以降、在宅サービスを中心に予想を上回るサービス利用の拡大が行われたものの、地域によるばらつきや未実施の市町村が見られたほか、精神障害者に対する福祉サービスの立ち遅れが指摘されました。
また、長年にわたり障害福祉サービスを支えてきた現行の施設や事業体系については、利用者の入所期間の長期化等により、その本来の機能と利用者の実態がかい離する等の状況にあったほか、「地域生活移行」や「就労支援」といった新たな課題への対応が求められました。
さらに、在宅サービスの費用について安定的な財源が確保される仕組みになっていない等の問題もありました。
そこで、障害者の自立支援という観点から総合的に見直すことを目的として、2005(平成17)年に「障害者自立支援法」が制定されました。
同法の主な特徴としては、障害の種別ごとに異なるサービス体系を一元化したこと、サービス料に応じた利用者負担(応益負担)を定めたことがあげられます。
3 障害者総合支援法の制定
さらに、2012(平成24)年の改正により、障害者自立支援法を改正して「障害者総合支援法」が定められました(原則として、2013(平成25)年4月施行)。
応益負担の原則の修正をし、地域社会における共生の実現等を目的とするものです。
障害者の定義に難病患者等が追加されています。
十 ニッポン一億総活躍プラン
2016(平成28)年6月2日に、あらゆる場で誰もが活躍できる、全員参加型の社会を目指すため、「ニッポン一億総活躍プラン」が閣議決定されました。
同プランでは、少子高齢化の進行が、労働供給の減少のみならず、将来の経済規模の縮小や生活水準の低下を招き、経済の持続可能性を危うくするという認識が、将来に対する不安・悲観へとつながっているとし、少子高齢化という構造的な課題に取り組み、女性も男性も、お年寄りも若者も、一度失敗を経験した者も、障害や難病のある者も、家庭で、職場で、地域で、あらゆる場で、誰もが包摂され活躍できる社会「一億総活躍社会」の実現を目指すとしたものです。
一億総活躍社会とは、「成長と分配の好循環」を生み出していく新たな経済社会システムの提案とされます。
即ち、全ての人が包摂される社会、一億総活躍社会が実現できれば、安心感が醸成され、将来の見通しが確かになり、消費の底上げ、投資の拡大にもつながる。さらに、一人一人の多様な能力が十分に発揮され、多様性が認められる社会を実現できれば、新たな着想によるイノベーションの創出を通じて、生産性が向上し、経済成長を加速することが期待される。
このように、「ニッポン一億総活躍プラン」では、アベノミクスによる成長の果実を活用して、子育て支援や社会保障の基盤を強化し、それが更に経済を強くするという「成長と分配の好循環」メカニズムを提示しているとされます。
社会保障は、従来、もっぱら「分配」を担うものとして位置づけられてきましたが、少子高齢化という構造的な問題の克服のため、「成長」との好循環を求められているとされます。
※ 以上の「十 ニッポン一億総活躍プラン」は、「平成29年版厚生労働白書」の26頁からでした。
しかしながら、これは当サイトの私的見解ですが、「ニッポン一億総活躍プラン」という名称はよくありません。
「ニッポン一億」人の中には、寝たきりの高齢者や疾病等のために働きたくても働けない者等が少なからず含まれているのであり、「一億総活躍」は無神経な表現であるといえるでしょう。
前述されている「全ての人が包摂される社会」(いわゆる「ソーシャル・インクルージョン」)という表現は適切だと思いますが。
ちなみに、この「ニッポン一億総活躍プラン」は、「一億総活躍国民会議」での議論を経て平成28年6月に閣議決定されたものであり、同プランの下、「同一賃金同一労働ガイドライン案」が策定され(平成28年12月20日公表)、「働き方改革実行計画」(平成29年3月28日策定)による方針の下、平成30年7月6日にいわゆる「働き方改革関連法」(「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律」)の公布に結びつきました。
同法は、次の3つを柱とします(詳細は、こちらです)。
➀長時間労働の是正、多様で柔軟な働き方の実現等
②雇用形態に関わりない公正な待遇の確保
③働き方改革の総合的かつ継続的な推進(「雇用対策法」からいわゆる「労働施策総合推進法」への改正・改称等)
社会保障制度の財政的基盤を確保できるような経済成長の方法を考察することは非常に重要なことでしょうが、そもそも、ベビーカーで通勤しているお母さんが負い目を感じるような社会環境では、「全ての人が包摂される社会」(ソーシャル・インクルージョン)とはほど遠いです。
様々な理念・理屈だけでなく、身近なところから「やさしい社会」を作り上げていく努力をすることが社会保障制度の最も大切な基盤となるのではないかと考えてはいます(筆者自身、そのような十分な努力をしているかといえば甚だ疑問がある中、ゴタクを並べており、スルーして下さい)。
過去問
以上の社会保障制度の変遷に関連した過去問を掲載しておきます。
・【平成19年問7D】
設問:
医療面で国民皆保険が進められるのに対応して国民皆年金の実現が強く要請されるようになり、自営業者等を対象とする国民年金法が昭和34年に制定され、昭和36年4月から全面施行された。
解答:
正しいです。
国民年金法は、昭和34年4月に制定され、これに基づき無拠出制の福祉年金制度が昭和34年11月から実施され、拠出制の年金制度が昭和36年4月から実施されました(こちら。国年法のこちら以下も参考です)。
・【平成19年問7E】
設問:
国民の老後における健康の保持と適切な医療の確保を図るため、疾病の予防、治療、機能訓練等の保健事業を総合的に実施し、国民保健の向上と老人福祉の増進を図ることを目的として、老人保健法が昭和57年に制定され、一部を除き、翌年2月から施行された。
解答:
正しいです。
老人保健法は、昭和48年の老人医療費の無料化に伴い増加した老人医療費について、公費並びに医療保険者の負担金及び拠出金を財源として賄うこと等を目的として、昭和57年8月に制定され、翌年2月(原則)から施行されました(こちら以下)。
なお、その後、同法は、平成20年4月から、高齢者の医療の確保に関する法律に改称され、全面的に改正されました(こちら)。
・【平成22年問7】
設問:
わが国の医療保険の沿革に関する次の記述のうち、正しいものはどれか。
A 船員保険法は、大正14年に制定され、翌年から施行された。同法に基づく船員保険制度は船員のみを対象とし、年金等給付を含む総合保険であるが、健康保険に相当する疾病給付は対象としていなかった。
B 健康保険の被保険者が定年等で退職するとその多くが国民健康保険の被保険者となるが、そのうちの厚生年金保険等の被用者年金の老齢(退職)給付を受けられる人とその家族を対象とした退職者医療制度が昭和49年の健康保険法等改正により国民健康保険制度のなかに設けられた。
C 健康保険制度は、長年にわたり健康保険組合が管理運営する組合管掌健康保険と政府が管理運営する政府管掌健康保険(政管健保)に分かれていた。しかし、平成8年可決成立した健康保険法等の一部を改正する法律により、平成10年10月からは、後者は国とは切り離された全国健康保険協会が保険者となり、都道府県単位の財政運営を基本とすることとなった。
D 職員健康保険法は、昭和9年に制定された。同法に基づく職員健康保険制度は工場労働者を対象とする既存の健康保険制度とは別個の制度として、俸給生活者を対象につくられたが、5年後の昭和14年には健康保険に統合された。
E 従来の老人保健法が全面改正され、平成18年6月から「高齢者の医療の確保に関する法律」と改称されたが、この新法に基づき後期高齢者医療制度が独立した医療制度として平成20年4月から発足した。
※ 以下、肢を再掲して、1肢ずつ見ていきます。
A 船員保険法は、大正14年に制定され、翌年から施行された。同法に基づく船員保険制度は船員のみを対象とし、年金等給付を含む総合保険であるが、健康保険に相当する疾病給付は対象としていなかった。
解答:
誤りです。
船員保険法は、「昭和14年」に制定され、翌年から施行されました。
また、船員保険法は、現在でも、健康保険に相当する疾病給付を対象としています。
船員保険法は、当初は、船員を対象とした、医療、年金、災害、失業に関する保険給付を行う総合保険でした。
しかし、次第に被保険者数の減少による船員保険制度の財政状況の悪化が進行し、昭和61年には、職務外の年金部門が厚生年金保険制度に統合されました。
さらに、平成22年1月からは、労災保険相当部分(職務上疾病・年金部門)が労災保険制度に統合され、雇用保険相当部分は雇用保険制度に統合されました。
現在では、船員保険制度は、健康保険に相当する部分(職務外疾病部門)のほか、労災保険給付の上乗せ給付等を行う制度となっています。
B 健康保険の被保険者が定年等で退職するとその多くが国民健康保険の被保険者となるが、そのうちの厚生年金保険等の被用者年金の老齢(退職)給付を受けられる人とその家族を対象とした退職者医療制度が昭和49年の健康保険法等改正により国民健康保険制度のなかに設けられた。
解答:
誤りです。
退職者医療制度が設けられたのは、「昭和49年」ではなく、「昭和59年」です(こちら)。
C 健康保険制度は、長年にわたり健康保険組合が管理運営する組合管掌健康保険と政府が管理運営する政府管掌健康保険(政管健保)に分かれていた。しかし、平成8年可決成立した健康保険法等の一部を改正する法律により、平成10年10月からは、後者は国とは切り離された全国健康保険協会が保険者となり、都道府県単位の財政運営を基本とすることとなった。
解答:
誤りです。
「平成8年」とあるのは「平成18年」、「平成10年10月」とあるのは、「平成20年10月」が正しいです(こちら)。
つまり、本肢の内容は、10年ずれています。
D 職員健康保険法は、昭和9年に制定された。同法に基づく職員健康保険制度は工場労働者を対象とする既存の健康保険制度とは別個の制度として、俸給生活者を対象につくられたが、5年後の昭和14年には健康保険に統合された。
解答:
誤りです。
「昭和9年」ではなく、「昭和14年」が正しく、また、「5年後の昭和14年」ではなく、「3年後の昭和17年」が正しいです。
かなり細かい知識ですが、今後は不要でしょう。
E 従来の老人保健法が全面改正され、平成18年6月から「高齢者の医療の確保に関する法律」と改称されたが、この新法に基づき後期高齢者医療制度が独立した医療制度として平成20年4月から発足した。
解答:
誤りです。
老人保健法を改正する改正法が平成18年6月に公布され、その施行は平成20年4月でした(こちら)。
従って、老人保健法が「高齢者の医療の確保に関する法律」と改称されたのも、正確には、改正法が施行された平成20年4月からとなります。
結局、この【平成22年問7】では、正しい肢はなく、没問となりました(合格発表日に公表された文書において、本来正答とされるべき肢のEについて誤解を招く内容であったとして、全員正解の旨が告知されました)。
・【平成27年問9A】
設問:
社会保障と税の一体改革では、年金、高齢者医療、介護といった「高齢者三経費」に消費税増収分の全てを充てることが消費税法等に明記された。
解答:
誤りです。
「高齢者三経費」ではなく、「社会保障四経費」(年金、医療、介護、子育て)が正しいです(「平成26年版厚生労働白書」(こちら)の252頁)。
こちら以下を参考です。
・【平成27年問9B】
設問:
社会保障制度改革国民会議において取りまとめられた報告書等を踏まえ、社会保障制度改革の全体像及び進め方を明らかにするための「持続可能な社会保障制度の確立を図るための改革の推進に関する法律」が平成25年12月に成立・施行(一部の規定を除く。)された。この法律では、講ずべき社会保障制度改革の措置等として、受益と負担の均衡がとれた持続可能な社会保障制度の確立を図るため、医療制度、介護保険制度等の改革について、➀改革の検討項目、②改革の実施時期と関連法案の国会提出時期の目途を明らかにしている。
解答:
正しいです(「平成26年版厚生労働白書」(こちら)の253頁以下)。
こちらを参考です。
「持続可能な社会保障制度の確立を図るための改革の推進に関する法律」とは、いわゆる「社会保障改革プログラム法」です。
・【平成27年問9E】
設問:
日本の高齢化率(人口に対する65歳以上人口の占める割合)は、昭和45年に7%を超えて、いわゆる高齢化社会となったが、その後の急速な少高齢化の進展により、平成25年9月にはついに25%を超える状況となった。
解答:
正しいです(「平成26年版厚生労働白書」(こちら)の250頁)。
高齢化率が14%を超える社会を「高齢社会」といい、21%を超える社会を「超高齢社会」といいます。日本は、平成6年に「高齢社会」となり、平成19年に「超高齢社会」に入りました。
次のページでは、社会保障給付費をもとに戦後の社会保障制度の変遷等を見ます。