令和6年度版

  

〔Ⅱ〕辞職(任意退職)= 労働者の一方的意思に基づく労働契約の終了

以下、「解雇以外の労働契約の終了事由」について学習します。

 

まず、「当事者の一方的意思に基づく労働契約の終了」(こちらの図の  の〔1〕を参照)の続きとして、「労働者の一方的意思に基づく終了」である「辞職」から見ます。 

 

 

一 意義

◆辞職(任意退職)とは、労働者が一方的に労働契約を解約する意思表示のことです。

 

 

二 要件

労働者の一方的意思に基づき、辞職は成立します。

具体的には、次のように期間の定めのない労働契約かどうかを考慮する必要があります。

 

まず、「期間の定めのない労働契約」の場合は、労働者は、いつでも解約の申入れができ、解約申入れ日から2週間経過により契約は終了するのが原則です(民法第627条第1項)。

 

期間の定めのない労働契約について、「使用者」が解約の申入れをする場合(即ち、解雇する場合)は、労基法や労契法に基づき、解雇権濫用法理、解雇期間制限及び解雇予告制度等によって解雇の自由の制限が定められているため、上記の民法第627条第1項は、適用が修正され、結果的に適用されないこととなります。

対して、期間の定めのない労働契約について、「労働者」が解約の申入れをする場合は、労基法等によって規制がないことから、この民法第627条第1項が適用されます。

従って、期間の定めのない労働契約を締結した労働者は、いつでも辞職することができ、ただし、辞職の意思表示の2週間後にその効力が発生することとなります(なお、やむを得ない事由があるときは直ちに契約を解除できることは、次の民法第628条が前提としています)。

 

他方、「期間の定めのある労働契約」の場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約を解除できます(当該事由の発生について過失ある場合は、損害賠償責任を負います。民法第628条)。

従って、有期労働契約の場合に、やむを得ない事由があるときは、「労働者」は、直ちに契約を解除できます(無期労働契約の場合の上記民法第627条第1項のように、2週間の予告期間をとる必要はありません)。

 

なお、1年を超える有期労働契約(最長は、原則3年)を締結した労働者は、原則として、1年経過後は、いつでも退職することができます(法附則第137条)。

ただし、有期事業及び上限が5年となる労働者(高度の専門的知識等を有する労働者(当該高度の専門的知識等を必要とする業務に就く者に限ります)及び満60歳以上の労働者)は、除きますこちら以下で見ました)。

 

対して、「使用者」が、有期労働契約において(やむを得ない事由があるとして)解雇する場合は、解雇予告制度が適用されますから、直ちに解雇できるわけではありません。

なお、期間の定めのない労働契約の場合も、労働契約法第17条第1項がカバーしていな事項(損害賠償責任)については、民法第628条が適用されます。 

 

以上については、こちら以下もご参照下さい。

 

 

三 効果

(一)労働契約の終了

適法な辞職により、労働契約が終了します。

 

 

(二)効力発生時期 ➡ 撤回の可否

◆辞職は、労働者の一方的な解約の意思表示であり、辞職の意思表示使用者に到達した時点効力が生じます(意思表示の到達主義の原則。民法第97条第1項によるものです)。

従って、使用者に辞職の意思表示到達した時点以後は、辞職の意思表示撤回することはできません。この点は、後述の合意解約と異なります

 

もっとも、錯誤(民法第95条)、詐欺・強迫(同法第96条)といった意思表示の不存在・瑕疵に基づく無効(民法改正後は、錯誤の効果は取消し)・取消しの主張は可能です。  

 

 

※【参考条文:民法】

民法第97条(意思表示の効力発生時期等)

1.意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる。

 

2.相手方が正当な理由なく意思表示の通知が到達することを妨げたときは、その通知は、通常到達すべきであった時に到達したものとみなす。

 

3.意思表示は、表意者が通知を発した後に死亡し、意思能力を喪失し、又は行為能力の制限を受けたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。

 

 

【参考 改正前民法】

 

〔次の改正前民法第97条は、令和2年4月1日施行の改正により改められました。

即ち、同条の見出しが「(意思表示の効力発生時期等)」に改められ、同条第1項中、従来、「隔地者に対する」とあったのが削除され、第2項中、従来、「隔地者に対する」とあったのが削除され、従来、「死亡し」とあった下に、「、意思能力を喪失し」が追加され、従来、「を喪失した」とあったのが、「の制限を受けた」に改められ、同項を第3項とし、第1項の次に後掲の第2項が追加されました。〕 

 

改正前民法第97条(隔地者に対する意思表示)

1.隔地者に対する意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる。

 

2.隔地者に対する意思表示は、表意者が通知を発した後に死亡し、又は行為能力を喪失したときであっても、そのためにその効力を妨げられない。 

  

 

・以下、改正後の民法第97条について少し説明しておきますが、読まなくて結構です。

 

(ⅰ)上記の改正後民法第97条第1項については、意思表示の効力発生時期について、隔地者か対話者かにより区別をしないことに見直されました。

即ち、従来は、意思表示の効力発生時期について、改正前民法第97条第1項は、隔地者に対する意思表示についてのみ定めていました。

しかし、対話者に対する意思表示の場合も区別する合理性がないことから、改正後民法第97条第1項においては、意思表示一般について、その通知が相手方に到達した時に効力が発生する旨が定められたものです。

 

(ⅱ)民法第97条第2項(到達妨害によるみなし到達)の「相手方が正当な理由なく意思表示の通知が到達することを妨げたとき」の規定(当該意思表示の通知は、通常到達すべきであった時に到達したものとみなされます)は、当事者間の公平の見地から、新設されたものです(【最判平成10.6.11】を踏まえた内容となっています)。

 

(ⅲ)民法第97条第3項は、意思表示の発信後に死亡、意思能力の喪失、行為能力の制限があっても、当該意思表示の効力は影響を受けないことを定めたものです。

今般の民法改正により、意思能力を有しない者がした法律行為を無効とすることが明文化されたこと(民法第3条の2こちら以下)に合わせて、この民法第97条第3項においても、意思能力を喪失した場合が追記されました。

 

(ⅳ)なお、この(ⅲ)民法第97条第3項については、「契約」の場合には特則があり(従来は民法第525条において規定されていました)、当該特則も改正され、次の規定に改められました(民法第526条)。 

 

民法第52条(申込者の死亡等)

申込者が申込みの通知を発した後に死亡し、意思能力を有しない常況にある者となり、又は行為能力の制限を受けた場合において、申込者がその事実が生じたとすればその申込みは効力を有しない旨の意思を表示していたとき、又はその相手方が承諾の通知を発するまでにその事実が生じたことを知ったときは、その申込みは、その効力を有しない。

  

前述の(ⅲ)のとおり、意思表示は、表意者が通知を発した後に死亡し、意思能力を喪失し、又は行為能力の制限を受けたときであっても有効ですが(民法第97条第3項)、

「契約」の場合は、契約の申込者が申込の通知を発した後に死亡し、意思能力を有しない常況にある者となり、又は行為能力の制限を受けた場合において、申込者が一定の意思を表示していたとき、又は相手方が承諾の通知を発するまでに当該事実が生じたことを知ったときは、その申込みは無効となります(民法第526条)。

 

改正前は、申込者の申込みの通知が到達後に申込者に死亡等の事実が発生した場合の取り扱いについて争いがあったことから、この場合においても、上記民法第526条が適用されることが明確化されたものです。また、意思能力の喪失の場合も追加されるなど、その他細かい改正が行われています(試験対策上は、さしあたりはスルーで結構です)。 

  

 

以上で辞職について終わります。これにて、「当事者の一方的意思に基づく労働契約の終了」は終了です。 

 

 

  

§2 当事者の合意に基づく労働契約の終了 = 合意解約

次に、当事者の合意に基づく労働契約の終了を学習します。合意解約の問題です。 

 

 

一 意義

◆合意解約とは、使用者と労働者の合意により労働契約を終了させる契約です。

 

 

二 要件

◆合意解約は、一方の解約の申込みに対して、他方が承諾した時点で成立します(契約の一般原則通りです。民法第522条第1項参考)。

 

合意解約は当事者の意思(合意)に基づくものであり、「解雇」には該当しませんから、解雇に関する規制(解雇予告制度(労基法第20条)や解雇権濫用法理(労働契約法第16条)など)は適用されません。

また、労働者が辞職する場合に適用される民法上の2週間の予告期間(民法第627条第1項)も適用されず、期間の定めの有無にも影響されずに、当事者の合意に基づきいつでも契約を終了させることができます(水町「詳解労働法」第2版993頁(初版961頁)参考)。

 

 

なお、労働者の合意解約の申込みの撤回の可否の問題については、すぐ後で見ます。

 

 

三 効果

◆合意解約により、労働契約が終了します。 

 

※ 撤回の可否

労働者合意解約の申込みをした場合使用者承諾の意思表示がなされるまでは労働者はこれを撤回できるのが原則と解されています。この点で、辞職の場合と大きな違いがあります。

 

契約の申込みに対して一定の拘束力を認めています民法第523条以下の規定は、新たな契約締結の申込みを想定したものであり、継続的な契約関係である労働契約の合意解約の申込みについては適用されないと解されています。 

 

そこで、例えば、労働者が辞職届や退職願などを提出したり、退職する旨を申し出たような場合に、辞職の意思表示をしたと解するのか、合意解約の申入れをしたと解するのかが、問題となります。

この点は、当該労働者の意思表示の解釈の問題となります。

 

まず、労働者の真意に基づく意思表示ではないと解される場合(例えば、労働者が、辞めるつもりはないのに、かっとなって辞めると述べたようなケース)は、民法第93条の心裡留保にあたります。

 

心裡留保とは、表意者が、表示行為に対応する真意がないことを知りながらする意思表示のことです(例えば、女性の歓心を得るため、その気はないのに、不動産を贈与すると約束したようなケースです)。

心理留保による意思表示は、原則として有効です。なぜなら、このような意思表示をした表意者には帰責性があり要保護性が乏しいこと、また、相手方の取引の安全(相手方の信頼・期待)を保護する必要があることからです。

ただし、相手方の取引の安全を保護する必要がない場合、即ち、相手方が表意者の真意でないこと〔民法改正前は、「真意」と規定されていました。後述の※1〕を知り(=悪意。法律上の悪意とは、知っているという意味です)、又は知ることができたとき(=有過失)は、当該意思表示は無効となります。

そこで、相手方である使用者が、労働者の合意解約の申込みが真意に基づかないことを知り(悪意)、又は知ることができたとき(有過失)は、当該労働者の申込みは無効となります。

 

労働者の意思表示が真意に基づくものと解される場合(または、使用者が真意でないことについて善意(知らないという意味です)かつ無過失の場合)は、労働者の意思表示が、使用者の対応・返答を待たずに労働契約を終了させようとするものであるときは、辞職と解され、使用者の対応・返答を待って結論を出そうとする趣旨であるときは、合意解約の申込みと解されることになります。

 

もっとも、実際は、労働者の意思表示がいずれであるかが不明確な場合があります(例えば、退職勧奨や早期退職優遇制度の下で、労働者が不本意ながら退職届を提出し、のちに退職の意思表示の効力を争うようなケースで問題となります)。

そして、「辞職」と解しますと、意思表示が使用者に到達された以後はその撤回ができなくなる点で労働者に酷になることもありますので、使用者の態度如何にかかわらず確定的に労働契約を終了させる旨の意思が客観的に明らかな場合に限り、辞職の意思表示と解すべきとして、辞職の認定は慎重に行われているという裁判例の傾向があるとされています。

 

 

 最高裁の判例を見ておきます。

 

【大隅鐵工所事件=最判昭和62.9.18】

 

※ あまり出題の対象となりそうな判示はありませんが、以下の(a)~(c)の各論点についての判例の結論は知っておいて下さい。

 

(事案)

 

労働者Aは、入社後、同僚と共に民青の活動をしていたところ、右同僚の失踪事件に関連して上司から事情聴取を受けたことをきっかけとして人事部長に退職届を提出し、その翌日になって退職願の撤回を申し出たが、会社に拒絶されたため、従業員としての地位確認を求めた事案。

 

 

(結論)

 

最高裁は、本件退職願の提出について合意解約の申込みがなされたものと解した上で、退職承認の権限を有する人事部長が退職願を受理した時点で承諾の意思表示があったと認定し、その後の退職願の撤回を認めませんでした。

 

 

(解説)

 

(a)この事案では、まず、労働者の退職願の提出が辞職の意思表示なのか、合意解約の申込み(申入れ)なのかが問題ですが、原審は、本件の退職願の提出は、会社の承諾があれば即時に雇用関係から離脱する意図であったと認定して、合意解約の申入れと解し、最高裁もこれを前提としています。

 

(b)次に、合意解約の申込みが書面等の一定の方式によることが必要な要式行為なのかについては、本判決は、契約の原則通り、必ずしも書面等の方式によることは必要でない旨を次のように判示しています。

 

「私企業における労働者からの雇用契約の合意解約申込に対する使用者の承諾の意思表示は、就業規則等に特段の定めがない限り、辞令書の交付等一定の方式によらなければならないというものではない。」

 

(なお、民法改正により、民法第522条第2項において、契約の成立には、法令に特別の定めがある場合を除き、書面の作成その他の方式を具備することを要しないことが明記されました。)

 

(c)さらに、本件合意解約の申込みに対して、使用者の承諾があり合意解約が成立したのかが問題です(使用者の承諾後は、労働者は合意解約の申込みを撤回できません)。

本件会社の場合、採用については、筆記試験の他に役員ら複数名の面接委員によって決定するという慎重な手続をとっており、それとの比較から、本件退職願について、人事部長個人が受理した時点で合意解約を認めるのが妥当なのか、問題となりました。

 

この点、原審は、上記採用手続とのバランスから、退職願に対する承認についても、人事管理の組織上一定手続を履践することにより使用者の承諾があったと解するのが妥当とし、人事部長の意思のみによって使用者の合意解約の承諾があったとは解されない旨を判示していました。

 

しかし、最高裁は、「原審の右判断は、企業における労働者の新規採用の決定と退職願に対する承認とが企業の人事管理上同一の比重を持つものであることを前提とするものであると解せられる」が、そのような判断は妥当でないとし、その理由として、本件会社がこのような採用制度をとっているのは、「労働者の新規採用は、その者の経歴、学識、技能あるいは性格等について会社に十分な知識がない状態において、会社に有用と思われる人物を選択するものであるから、人事部長に採用の決定権を与えることは必ずしも適当ではないとの配慮に基づくものであると解せられるのに対し、労働者の退職願に対する承認はこれと異なり、採用後の当該労働者の能力、人物、実績等について掌握し得る立場にある人事部長に退職承認についての利害得失を判断させ、単独でこれを決定する権限を与えることとすることも、経験則上何ら不合理なことではないからである」と判示しました。

 

そこで、結論として、人事部長に退職願に対する退職承認の決定権があるならば、右人事部長が退職願を受理したことをもって本件雇用契約の解約申込みに対する使用者の即時承諾の意思表示がなされたものといえるとして、本件雇用契約の合意解約が成立したものと解される旨を判示して差し戻しました。  

 

 

※1【参考:心裡留保に関する民法改正】

 

試験対策上は不要ですが、前述の心裡留保に関する民法第93条も改正されましたので、簡単に触れておきます(読まなくても結構です)。

まず、次は、改正前の民法第93条です。

 

改正前民法第93条(心裡留保)

意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。

  

〔この民法第93条は、令和2年4月1日施行の改正により改められました。

即ち、同条ただし書中、従来、「表意者の真意」とあったのが、「その意思表示が表意者の真意ではないこと」に改められ、同条に後掲の第2号が追加されました。〕 

 

【改正後民法】 

民法第93条(心裡留保)

1.意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方がその意思表示が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。

 

2.前項ただし書の規定による意思表示の無効は、善意の第三者対抗することができない

 

 

※ 心裡留保による意思表示(表意者が、表示行為に対応する真意がないことを知りながらする意思表示)は、(表意者に帰責性があり、相手方の取引の安全を図る必要があることから)原則として有効とされ、ただし、従来は、「相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたとき」は無効となる旨が規定されていました。

しかし、相手方が、表意者の真意がどのようなものであるか具体的に知らなくても、その意思表示が真意と異なることを知っていれば、その保護を図る必要はありません。

そこで、心裡留保による意思表示は、「相手方がその意思表示が表意者の真意ではないことを知り、又は知ることができたとき」は無効となるものと、従来から一般に解されていました。

改正後の民法第93条第1項では、その旨が明記されたものです。

 

※ また、今般の改正により、第93条に第2項が新設されました(民法第93条第2項。なお、本規定で「対抗することができない」とあるのは、「主張することができない」程度の意味です)。

例えば、Aが真意ではなく建物をBに売却する意思を表示し、真意でないことを容易に知り得たBが承諾の意思表示をしたうえで、事情を知らない第三者Cに転売したような場合のCの保護が問題となります。

この場合、Aの心裡留保による意思表示について、相手方Bが悪意又は有過失である場合は、Aの心裡留保による意思表示は無効となりますから(改正前民法第93条ただし書改正後民法第93条第1項ただし書)、AB間で売買契約は成立せず、Bは当該建物の所有権を取得しない以上、Cもその所有権を取得できないことになります。

しかし、それでは、第三者Cは、心裡留保の成否という認識困難な事情により不測の損害を被り、他方で、心理留保による意思表示を行ったAには帰責性が認められます。

そこで、従来から、このような場合は、「虚偽表示(相手方と通謀してした真意でない意思表示)の無効は善意の第三者に対抗できない」旨を定めている民法第94条第2項を類推適用して(心裡留保の場合は、当事者間の通謀がないため、類推適用となります)、第三者の保護を図る構成が採られていました。

今般の改正では、第2項を新設することによりこの結論を明文化したものです。 

 

 

※2【参考:錯誤に関する民法改正】

 

なお、便宜上、ここで錯誤に関する民法の改正についても触れておきます(かなり難解な個所があり、試験対策上もほぼ関係しないため、読まなくて結構です)。

 

まず、改正前と改正後の条文です。 

 

【改正前民法】

改正前民法第95条(錯誤)

意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。

 

 

上記の改正前民法第95条は、令和2年4月1日施行の改正により次のように大きく改められました。

 

【改正後民法】

民法第95条(錯誤)

1.意思表示は、次に掲げる錯誤に基づくものであって、その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるときは、取り消すことができる

 

一 意思表示に対応する意思を欠く錯誤〔=表示行為の錯誤〕

 

二 表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する錯誤〔=動機の錯誤〕

 

2.前項第2号〔=動機の錯誤〕の規定による意思表示の取消しは、その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたときに限り、することができる。

 

3.錯誤が表意者の重大な過失によるものであった場合には、次に掲げる場合を除き、第1項の規定による意思表示の取消しをすることができない。

 

一 相手方が表意者に錯誤があることを知り又は重大な過失によって知らなかったとき。

 

二 相手方が表意者と同一の錯誤に陥っていたとき。

 

4.第1項の規定による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。

  

1 改正の概要

 

錯誤とは、表示行為に対応する真意のない意思表示であって、表意者がそれを知らない場合です。

 

改正前は、表意者の意思表示に錯誤がある場合は、法律行為の要素(重要部分という意味です)に錯誤があったときは、当該意思表示は無効とされました(改正前民法第95条本文。ただし、表意者に重大な過失がないことが必要です)。

 

今般の改正のポイントとしては、要件については、動機の錯誤かどうかにより区別されることが明示されたこと、効果については、改正前の「無効」から「取消し」に改められたこと、第三者保護規定が新設されたことが挙げられます。

 

以下、要件と効果に分けます。 

 

2 要件

 

(1)重要な錯誤であること

 

改正後は、要件について、まず、従来の「法律行為の要素」の錯誤に相当するものとして、「錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものである」ことが要求されました。

従来の「法律行為の要素」の錯誤の内容をより明確化したものです。 

 

(2)表示行為の錯誤と動機の錯誤の区別

 

次に、いわゆる表示行為の錯誤の場合(例えば、1万円と記載すべきところをゼロを多く100万円と記載したといった誤記、言い間違い等のケース)と動機の錯誤の場合(土地が値上がりすると誤信して契約したようなケース)を区別し、後者の動機の錯誤の場合は、動機となった事情法律行為の基礎とされていることが表示されていることを要件としました(民法第95条第2項)。

これは、基本的に、判例の立場を明文化したものです。

動機の錯誤の場合は、表示行為の錯誤に比べ、外部から認識が困難であるため、動機が(法律行為の内容となって)表示されていることを要求することによって、相手方の取引の安全を図ったものです(なお、「表示」は、黙示的な表示も含みます)。 

 

(3)表意者に重過失がある場合

 

なお、表意者に重過失がある場合は、従来、錯誤の主張は認められませんでしたが(改正前民法第95条ただし書)、改正後は、表意者に重過失があっても、例外的に錯誤主張を認めることが妥当な場合として、相手方の悪意・重過失の場合と共通錯誤の場合である次の①②の2つを明記しました(民法第95条第3項)。(これは、従来、学説が主張していた内容です。)

 

①相手方が表意者に錯誤があることを知り、又は重大な過失によって知らなかったとき。

 

②相手方が表意者と同一の錯誤に陥っていたとき。 

 

 

2 効果

 

次に、効果に関する改正です。

 

(1)取消し

 

錯誤の効果について、改正前は「無効」でしたが、改正後は「取消し」に改められました。

この点、無効については、取消しに関する取消権者(民法第120条)に相当する規定がありませんから、本来、誰でも無効を主張できるはずです。

しかし、錯誤に関する民法第95条の趣旨は、錯誤に陥った表意者を保護することにありますから、原則としては、第三者に錯誤を主張させる必要はなく、表意者のみが錯誤を主張できるものと解されていました(判例)。

そして、より表意者に帰責性が乏しい「詐欺」の効果も取消しであることとのバランスも考慮して、今般の改正により、錯誤の効果は「取消し」に改められたものです。

 

 

(2)第三者保護規定の創設

 

例えば、土地を所有するAが、Bからだまされて当該土地をBに売却し、Bがさらに事情を知らないCに転売した後、だまされたことに気づいたAがBとの売買契約に係る(承諾の)意思表示を錯誤に基づき取り消したような場合のCの保護が問題となります。

(なお、この錯誤に基づく取消しは、前述の動機の錯誤のケースに当たります、本例では、錯誤に基づく取消しの要件は満たすものと仮定します。)

 

意思表示が取り消されますと、「取り消された行為は、初めから無効であったものとみなす」ことになり(民法第121条。取消しの遡及効。なお、本条は改正されていません)、前記AB間の売買契約も遡及的に無効となりますから、所有権を取得しなかったことになるBから購入したCも所有権を取得できないことになります。

しかし、これではCの取引の安全を害するため、改正後の民法第95条第4項において、錯誤による意思表示の取消しは、善意かつ無過失の第三者に対抗することができない旨の規定が新設されたものです。

つまり、錯誤について善意かつ無過失である第三者は保護されます。

 

従来も、学説では、詐欺に関する第三者保護規定である第96条第3項を類推適用することなどによって第三者を保護するといった考えがありました(ちなみに、この第96条第3項は、今般の改正前は、第三者が保護される要件として「善意」のみを規定していましたが、改正後は、「善意かつ無過失」に見直されました)。

 

〔以下は、より複雑なため、不要です。〕

ただし、取消しに関する第三者保護に係る法律関係については、一般に、取消し前に利害関係に入った第三者であるか(取消し前の第三者)、取消し後に利害関係に入った第三者であるか(取消し後の第三者)によって区別されています(詐欺の民法第96条第3項について、【大判昭17.9.30】)

即ち、民法第95条第4項は、「取消しの遡及効」(前述の民法第121条)により影響を受ける第三者の取引の安全を図る趣旨であるとして、同規定は取消し前に利害関係に入った第三者についてのみ適用されるという構成が採られる可能性が高いです(ただし、「四宮=能見」第9版「民法総則」のように、錯誤による取消し後の第三者についても、第95条第4項を適用すべきとする立場などもあります)。

 

他方、取消し後に利害関係に入った第三者(例えば、上記のケースで、AがBとの売買契約を取り消した直後に、Bが当該土地をCに売却した場合のC)についても、その取引の安全を図る必要はあります(第三者にとっては、取消しの前後という自己の関知しない事情により取り扱いが大きく異なるのは不均衡となります)。

そこで、例えば、不動産の取引の場合には、取消しにより不動産の2重譲渡と類似する関係が発生したものと構成し、登記の具備の先後で不動産物権関係を処理する民法第177条を適用して解決する構成が採られる可能性があります(前述のケースでは、売主Aが錯誤による取消しを主張後、売主Aと第三者Cのどちらが先に登記を具備したかにより優先関係を決します(いわゆる復帰的物権変動論。判例(前掲の【大判昭17.9.30】)は、詐欺取消しのケースについて、このような復帰的物権変動論を採っています)。

ただし、この構成では第三者Cが悪意でも保護されてしまうという問題はあり、虚偽表示に関する第94条第2項を類推適用するなどして、善意かつ無過失の第三者を保護すべきとする学説も多いです。

もっとも、迅速に登記を戻さなかった売主Aについても帰責性はあり(「取消し前に利害関係に入った第三者」の場合は、売主Aは当該第三者の関与前に取消していない以上、登記を戻すことを期待しにくいという違いがあります)、復帰的物権変動論では、登記の有無により不動産物権関係の安定を確保できるというメリットはあります。

民法第177条は、不動産に関する物権変動は、登記をしなければ第三者に対抗することができない旨を定めています。これは、登記により不動産物権関係を公示して第三者の取引の安全を図るとともに、(条文上は第三者の善意・悪意を問題としていませんから)登記の有無により優先関係を決することにより不動産物権関係の安定を確保しようとした趣旨と解されます。

この登記の有無により不動産物権関係を処理するという民法第177条の趣旨は、上記のような取消後の第三者に関する問題についても妥当することになります。)

 

以上の問題については、錯誤の改正後においても引き続き争われるものといえます。

 

 

以上、当事者の意思に基づく労働契約の終了事由について終わります。

 

次のページにおいて、当事者の意思に基づかない労働契約の終了を学習します。